親がなくては障がい者は生きていけない、なんてない。 ―ダウン症の書道家・金澤翔子さんの母・泰子さんが“親なきあと”に託す思い―

今の日本には、総人口の約9.3%に相当する、約1,160万人の障がいのある人がいる(身体障がい者:約423万人。知的障がい者:約126万人。精神障がい者:約614万人)。※

障がいのある人に対する人々の理解は、「ダイバーシティ」「インクルージョン」といった考え方が広まり、浸透するにつれ、日々深まっているように見える。 しかしそんな社会にあっても、障がい者が生きがいを感じながら自分らしく生きるのは、やはり簡単なことではない。さらに悩ましいのは、障がい者の「親なきあと」問題だ。親が亡くなったら? 認知症になったら? 「親なきあと」に、障がい者がこの社会で、とりわけ著しい変化を遂げていくであろうこれからの時代に、自立して生きていくのは並大抵のことではなさそうだ。

笑顔で語る金澤泰子さん

以前このLIFULL STORIESで取材した、ダウン症の書道家金澤翔子さんは、自立して自分らしく生きる障がい者として大きな反響を呼んだ。

それにしても翔子さんは、いかにして、現在の充実した日々を手に入れたのだろう? そしてこれからどう生きていくのか? それを探るべく、今回は翔子さんのお母さまである金澤泰子さんに、これまで翔子さんをどのように育てて今に至り、これからどう向き合っていくのか? そして、親なきあとについてどう考え、どう対処されているのかについて聞いた。

出典:厚労省「障害者の数」https://www.mhlw.go.jp/toukei/list/dl/seikatsu_chousa_b_r04_02.pdf

本人の力を信じて、できるだけ本人にやらせてあげて欲しい

希望を失い、引きこもってしまった日々

今やダウン症の書道家として著名な金澤翔子さん。そのお母さまはきっと、聡明快活にして、翔子さんを力強く牽引してこられた、疲れ知らずのスーパーウーマンに違いない、という勝手な想定のもとお話を伺い始めた。そうしたら少々当てが外れていた。

「この子は私が42歳の時の子どもなので、それはもういろいろな希望を持って出産したわけですよ。そうしたらダウン症だって言われて。対処のしようはないんだと。もう私はそこからすっかり引きこもっちゃったんです。当時は何度も死のうと思いました」

これは障がいのある子を持つ親の多くが経験したことかもしれないが、泰子さんには元々そういった性向があったという。

「学生時代から、私には社会性がなくて、何かあるとすぐに引きこもっちゃうような人間でした。それは学校でも有名だったんですよ」

元々引きこもりがちだったところに、翔子さん出産時のショックが追い打ちをかけ、泰子さんの立ち直れない日々は、しばらく続いた。

「その後も、この子をこんな人間に育てたい、何者にしたい、なんていう希望も持てませんでした。ただ、私が死んだ後もこの子は生きていく、ということだけは確かなのだから、人に迷惑をできるだけかけない人間になって欲しい、そのためになんとか自立して欲しいっていう、それはずっと頭にありましたね」 

笑顔で語る金澤泰子さん

引きこもりから脱け出させてくれたのは、書道だった

そんな引きこもり的生活から抜け出すきっかけになったのは、泰子さんご自身が長く取り組まれてきた書道だった。

「やっぱり私は、この子に何かやらせてあげなきゃと思って。だけど私には書道しかありませんでしたから、自宅で書道教室を開いて、近所の子ども達と一緒に、翔子に教えることにしたんです」

もとより「この子を将来、書道家に」などという高邁(こうまい)な志があったわけではない。娘に何かやらせたい、友達を作ってあげたいという思いから始めたことだ。しかし翔子さんは、泰子さんの期待以上に、真摯に書道に取り組んだという。

「この子は非常に、人の気持ちを汲み取る子なんですね。その人が何を望んでいるのかをすごく気にして、それに応えてあげたくなる。だからこの時も、この子は私の、書道に親しんで欲しい、楽しんで欲しいっていう気持ちを汲み取ったのでしょう。他の子たちに比べても一生懸命でしたし、何よりしっかりした書を書くのに驚きました」

翔子さん20歳での初めての個展が、母娘の人生を切り拓いた

泰子さんは、翔子さんが20歳になった時に初めて、書の個展を開いた。それは、翔子さんが14歳の時に心臓発作で急逝されたご主人の、いわば遺言のようなものだった。生前のご主人はいつも「翔子は書がうまいよ!」と嬉しそうに語っていた。そして「翔子が20歳になったら、個展を開こう!」とも。泰子さんは一念発起して重い腰をあげ、個展を開くために動き出した。

「主人の『20歳になったら個展を』という願いだけは、私がなんとしても実現しなきゃ、と思って。私の書の先生である家元に相談して、それでなんとか、個展を開催するまでにこぎつけたんです」

銀座で開催されたその個展、「翔子・その書の世界」は、大きな反響をよんだ。

「とにかく1回だけ、ちゃんと個展をやろう、それもできるだけ立派にやろうと思ってやったんですけど、それが、もう1回、もう1回って。そうする内に、気がついてみたらもう500回を超えてるんですよね。自分でもビックリです」

金澤翔子さんの展示のチラシ

笑顔で語る金澤翔子さん

“一人暮らし” という次なる挑戦

個展の開催を重ね、他にもさまざまなイベントに参加したり自ら開催したりと、忙しくも充実した日々を送りながら、泰子さんは考えていた。「亡き夫との約束は果たせた。さて次は……?」

かつて落ち込んで引きこもっていた時代から、泰子さんの頭には、翔子さんをなんとか自立させなければ、という強い思いがあったが、その具体的なカタチとして、翔子さんを「一人暮らし」させたいと考えるようになっていた。そして、泰子さんのそんな思いを、またもや翔子さんがいつの間にか、そして見事に汲み取ってしまう。

「30歳で一人暮らしを始める、というのは、もちろん私が望んでいたことではあるんですけど、心の底では、そんなこと無理だろう、できるわけない、とも思っていました。ところが翔子は、たくさんのお客様に集まっていただいたある書道の会で、なんと自分で宣言しちゃったんですよ。『30歳になったら私、一人暮らし始めまーす!』って。もう私驚いちゃって」

やがて翔子さんが30歳になると、翔子さんの“宣言”を覚えていた方々からメール等が届いた。「30歳になりましたね。一人暮らし、始めましたか?」

「宣言もしちゃったし、とにかく一人暮らしを始めなきゃマズいと思って、まずはこの子が住む場所を探し始めました。だけど、いろいろ当たっても全然見つからないの。そのうちたまたま、この商店街の並びのマンションに空室が出て。もう詳しいことも聞かないで、そこに住むことに決めちゃったんです」

そして翔子さんは、キャリーバッグに必要なものを詰め込んで、家を出て行くことに。泰子さんには、その時の翔子さんとのやりとりが忘れられないと言う。

「そのとき私は、翔子に向かって『いってらっしゃい』って言ったんですよ。そうしたら翔子は、私の方をキッ! と振り返って、『いってらっしゃいじゃないでしょ、サヨナラでしょ?』って言うの。私より翔子の方が、ちゃんと覚悟ができていたんですね」

笑顔で語る金澤泰子さん

街じゅうが翔子さんを迎え入れ、応援してくれる

翔子さんの一人暮らしが始まった。その時の翔子さんの心境はいかばかりだったろう。彼女ならなんとかやっていける、という勝算があったのだろうか。

「いえ、正直いうと私はその時も、『どうせ1か月もしたら帰ってくるだろう』と思ってたんですよ」

商店街に出かけて行って買い物をして、自分で料理をして食事して、後片付けをして、一人で寝る。当たり前とも思えることが、障がいのある翔子さんにとっては、けっして簡単なことではない。泰子さんが「どうせすぐに帰ってくるだろう」と考えるのも当然だろう。しかし、翔子さんがメソメソと帰ってくることはなかった。

「商店街の人たち、街の人たちが、翔子に教えてくれるんですよ、お金の使い方から、何から何までいろんなことを。翔子がこの街を歩き回っていると、あっちのおじいちゃんや、こっちのおばあちゃんが、それこそもう街全体が、翔子を待っててくれて、相手をしてくれる、そんな感じ。本当にありがたいですよね」

街中が翔子さんを迎え入れ、応援してくれたのは、翔子さんが持って生まれた「サービス精神」と「人の気持ちを思いやり、汲み取る力」のおかげなのだろう。翔子さんのこんな特性を見据えて泰子さんは、次の一手を考え始めていた。

“人を想う気持ち”に溢れるこの子を、いかにして自立させるか

泰子さんが考えたのは、喫茶店を開いて翔子さんを接客業に就かせるという、これまた障がいのある人にとって簡単ではないことへの挑戦だった。

「この子には“人を想う気持ち”しかないんですよ。だから接客業が一番向いていると思ったんです。私がいなくなったら、翔子は天涯孤独になっちゃうから、それでこの喫茶店を開いて、ウエイトレスとして自立した翔子をこの街に託したい、って考えたんです」

とはいえこの喫茶店の開業に関しても、実は泰子さんに勝算があってのことではなかったという。

「この店を開いた時には、私も自信がありませんでした。だから周囲には何も言わずに開いたんです。翔子には大したことはできないだろう、それでも、ただここで働いていければそれでいいや、って思っていました。とにかく試しにやってみようと。でも一旦店を開いたら翔子は、切羽詰まってやらざるを得ないと思ったんでしょうね。あれこれ一生懸命やり始めたんですよ」

金澤泰子さん・翔子さんが寄り添って立つ様子

今まさにお二人にお話を伺っているこの喫茶店内には、4人掛けのテーブルが8つほど並んでいる。当然それらのテーブルには「○番テーブル」というナンバーがついている。それを翔子さんが理解して覚えるなんて無理だろうと、泰子さんは思っていた。しかし翔子さんは、いつの間にかそれを覚え、オーダーを取り、配膳するようになったのだという。

「そういったことは今まで、家庭教師をつけて教えてもらっても身に付かなかったことなんですよ。それなのに必要に迫られて、それが理解できるようになったんですから、もう驚きでした」

ここまでのお話を伺っていると、親が道筋をつけてあげて、後はできるだけ子どもに自力で遂行してもらう。というのが泰子さんの流儀のようだ。いや実際には、泰子さんが想像し期待する以上に翔子さんは自立し、役割を果たし、人生を楽しんでいるように見える。

やっと、後見人を見つけることができました

20歳で初めての個展を開き、30歳で一人暮らしを始め、40歳で喫茶店のウエイトレスとして働き始めた翔子さん。さて泰子さんは、翔子さんの「親なきあと」に、どのように備えているのか尋ねてみた。

「はい。ちゃんと後見人、決まりましたよ。成年後見人とはまた違う方法ですけどね。それは主人が亡くなってしばらく経ってから、もう20年以上も前に考え始めたことです。実際に後見人探しを始めてから決まるまでにも10年かかりました。自分がいなくなっても安心して我が子を託すことのできる、本当に信頼できる方にお任せしたいと思ったら、そう簡単には決められません。時間をかけて何人もの方とお会いして、じっくりお話させていただいて、やっと。 翔子には父親も、そして兄弟もいませんし、私もこんなふうに社会性がなくて、いろんな人との付き合いもないですから、それはもう大変でしたけど、頑張りましたよ」

その子の可能性を、信じてあげてください

最後に、障害のある子どもを持つ親御さんたちに向けてメッセージをお願いすると、その第一声は……

「このお店で見ててもね、障がい者の親御さんの多くは、何から何まで、手取り足取りやってあげるんですよ。そういうのを見ると私はイライラするの(笑)。それ、本人にやらせてみたらできるかもしれないのに! って」

例えば、泰子さんは翔子さんが料理を作り始めたら、一切手伝わない。翔子さんが「できた!」というまでキッチンに入らないのだ。どんなに時間がかかっても、待つ。そうする内に翔子さんは、どんどん料理の腕を上げていった。そして今では大抵の料理が作れるようになった。元々サービス精神が強いところに、本人の達成感が後押しして、今も翔子さんが、ウエイトレスとして、そして人として成長し続けているのを感じるという。

翔子さんへの取材記事も読む
障がい者の親御さん達は、どうしても“子どもを守ってあげたい”という気持ちが強いから、子どもに代わって自分がやっちゃうことが多いですよね。それはしょうがないことなんだけど、だけどやっぱり、本人の力を信じて、できるだけ本人にやらせてあげて欲しいと思います。そうして達成感を感じさせて欲しい。そうしたら子どもさんは、どんどん成長していってくれると思いますよ。
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取材・執筆:宮川貫治
撮影:阿部拓朗

金澤泰子さん・翔子さんが寄り添って立つ様子
Profile 金澤泰子

書家。随筆家。久が原書道教室主宰。
ダウン症の書家として国内外で活躍する金澤翔子の母であり、幼い頃から書を教えてきた師。明治大学卒業後、東京・大田区に久が原書道教室を開設。娘・翔子と共に歩んだ人生を通して、人が持つ可能性や希望、そして共に生きることの大切さを社会に発信し続けている。また、随筆家としてこれまで 35 タイトルを超える著書を発表。その温かなまなざしと、深い人生観は幅広い世代から支持を集めている。
東京藝術大学評議員、日本福祉大学客員教授を務めるなど教育・文化の分野でも幅広く活動している。
金澤翔子HP:https://k-shoko.org/

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