やりたい仕事を見つけなきゃ、なんてない。 ―事故、恩師、弟との縁。「頼まれごと」から道が拓けた日本賃貸住宅管理協会・塩見会長の45年―
この春、新卒で入社した新社会人の中には、自分が就職した会社に、あるいは取り組み始めたばかりの仕事に、早くも疑問を感じている人もいるかもしれない。「この会社でよかったのか?」「この仕事は自分に合っているのか?」と。世の中にはあまたの企業や団体があり、職業や技能があって、その中からたった1つを選んで飛び込んだのだから、何かにぶつかると不安になるのも仕方ないことだろう。それにしても先人たちはこんな時にどう考え、どう動いたのだろうか? そのヒントをいただければと、45年ほど前に新社会人となり、さまざまな体験を経て今は大成し、社会を動かし続けている大先輩を訪ねた。
株式会社明和住販センターの代表取締役社長で、日本賃貸住宅管理協会(以後、日管協)の会長も務める塩見紀昭さんは、不動産業界で確固たる地位を築いただけでなく、業界の枠を超えた膨大な人脈をお持ちの、きわめて顔の広い方だ。
功成り名を遂げた今もなお、数多い知己の中から誰かと誰かを引き合わせ、結びつけることで、新たなムーブメントを生み出そうと常に精力的に活動されている。例えばつい最近も、高齢者が賃貸物件を借りられない問題を解決したいとそれまでのキャリアを捨て不動産賃貸業に転じた女性の話を聞きつけると、「それなら、この人に会うといい」と経験豊富な業者を紹介したというのだ。いったい塩見さんとはどんな方なのか。その職業観と人生観に迫る。
母はよく私に、“頼まれごとは、試されごと”って言ってました。人から何か頼まれたら、それはお前の力が試されているのだから、出来ることであれば断わらずに引き受けなさいっていうんですよ
右腕切断の危機と、母の宣告。「お前は一回死んだのだから、人のために生きなさい」
塩見さんは、高校1年生の時にバイク事故を起こした。この事故は、彼のその後の人生に少なからぬ影響を及ぼしている。
「僕は、通学には絶対使わないという誓約書を書いて、父親に400ccのバイクを買ってもらったんです。なのに翌朝それにまたがって高校に向かって走らせ、途中でトレーラーに挟まれる事故を起こしてしまった。バイクは真っ二つになり、僕は右腕の骨が飛び出すほどの重傷を負った。担当した医師が『接触場所が10cm違っていたら命はなかった』というほどの大事故でした。本当に親不孝なことをしてしまいました」
すぐに父親が病院に駆けつけ、右腕の切断を主張する医師を制して救急車を呼び、知り合いの名医のセカンドオピニオンを求め、結果的になんとか切断は免れた。その時母親からは、こう言われたという。「お前は一回死んだのだから、これからは人のために尽くしなさい」と。母のこの言葉は、自分よりも人のために働き、人と人とのつながりを何より大切にする塩見さんの原点になっているのかもしれない。

この大事故のせいで長く入院生活を送り、同級生よりも1年遅れて高校を卒業した塩見さんは、シェフを目指そうとレストランで料理修行を始めた。しかしそれだけではお金が足りず、トラックの運転手をしたり、ビアホールでビールを運んだり、夜は六本木のディスコでアルバイトをしたりしながら、わずかな暇を見つけてはサーフィンに通う生活だった。
大学に進まず働き始めたのには、父親の教えの影響もあったかもしれないと塩見さんは言う。
父の教えは、厳しくも自立を促すものだった。
- 20歳を過ぎたら、親ではなく一人の男として向き合う
- 経済的に自立せよ
- 財産は残さない。俺を頼るな
父親は画家で、当時その絵を買ってくれる人たちは皆、かなりのお金持ちだった。彼はそんな顧客たちを冷徹な目で眺め、こんなことも言っていたそうだ。
「『俺が会ったお金持ちの多くは、なぜか幸せではなかった。財産のある人の多くは不幸だ』って。だからなのでしょうか、『俺は財産を残さない。だからお前も俺を頼ることなく自立しろ』が口癖でした。そして実際、見事に財産もお金も残さなかった」
そんな風に、自立を求められながら自由奔放に働いていた塩見さんに、大きな転機が訪れます。きっかけは、最も身近な人物からの誘いでした。
「兄貴なら絶対向いてる」弟の一言で不動産業界へ。1日数百本の電話営業で知った「契約の震える喜び」
そんな両親に育てられた塩見さんには、1つ歳下の弟さんがいた。彼は高校卒業と同時に不動産会社に入り、二十歳そこそこで課長になり、塩見さんよりはるかに高額の収入を得ていた。社交的な塩見さんとは真逆の、無口で実直な努力家の彼が、ある日塩見さんを不動産業界に誘う。
「弟は、僕にとって自慢の弟でした。そんな弟がある時、『兄貴は友人が多くて顔も広いし世話好きだから、この不動産業界に絶対向いてると思う』と言うのです。生来の頑張り屋で、若くして出世した彼がそう言うのならそうかもしれない。ひとつやってみるかという気になって、それ以上深く考えることもなくこの業界に入りました」
不動産業界での塩見さんの仕事は、マンション販売の電話営業から始まった。1日に数百本の電話をかけ続ける毎日。今と違って当時は、個人情報が並んだ分厚いコピーが目の前に積まれていた。そのリストの上から順に、片っ端から電話をかけまくるのだ。最初は「電話でマンションが売れるのだろうか?」と半信半疑だったが、どうすれば相手に話を聞いてもらえるかを必死に考えながら電話をかけ続けていたら、いつしか反応が出始めた。
「ホントにたまにですけど、『それどこの物件?』とか『あら、いい立地じゃない!』なんて話になって。500本に1本くらいの割合かな? アポイントが取れ始めた。初めて契約していただいた時は、ビックリするやら嬉しいやら。どこのどんな方だったかまで、今でも鮮明に覚えていますよ」

“地味な賃貸管理業”に差し込んだ光。「賃貸管理業を制する者が業界を制す」と言う師との衝撃的な出会い
電話営業が楽しくなり始めた頃、弟さんから再び声がかかった。「自分の会社を手伝って一緒にやらないか」と言うのだ。
「弟は、『売ることに関しては誰にも負けないけど、俺は管理が不得手なんだ』と。それで私に管理をやってくれないかと言うのです。頑張り屋でいつも強気の弟が、その時はちょっと困っているようにも見えた。ここは弟を助けるために、というのはちょっとおこがましいけど、そんな気持ちもあって、若気の至り(当時若干27歳)もあって、挑戦することにしました」
不動産“賃貸管理”の仕事は、“売買”とはまるで違う仕事だった。だから塩見さんは一から徹底的に経験し、勉強した。その結果、売買の業界に比べて、賃貸管理の業界は、かなり遅れているようにも感じられたという。そんな日々の中で、塩見さんはある人物に出会う。それは不動産賃貸管理に関するあるセミナーに参加したときのことだった。
「そのセミナーの最後に三好さん(日管協第二代会長:三好勉氏)が、『賃貸管理業を制するものは、不動産業界を制する』っておっしゃったんです。いや、すごい人がいるなって思いましたよ。だって賃貸管理業って、当時はおそろしく地味なイメージで、家賃滞納とかのマイナスからスタートするような、業界の下の方の、それこそ日の当たらないポジションでしたからね。とにかくその言葉には衝撃を受けました」

その後、北九州で開催されたシンポジウムに参加すると、そこでも三好さんが基調講演をされていた。その話に再び感動し、興奮で早くに目が覚めてしまった翌朝、朝食を一番乗りで食べようと、宿泊したホテルのレストランに入ると、ぽつんと一人で食べている男性の姿が目に入った。
「あ、三好さんだ! って。若気の至りというんでしょうか、気がついたら私は彼の前に立って、『ご迷惑じゃなければ、ご一緒させていただけませんでしょうか?』って口に出していた。そうしたら三好さんは、『お、いいよ』って笑顔で迎えてくれたんです。それで、食べながら僕の話を聞いてくれて、『お、そうか』『それはすごいな!』って褒めてくれる。聞き上手の褒め上手なんですよ、三好さんて人は」
それが三好元会長との初めての出会いだった。その後塩見さんは、自身が主催していた仲間内の小さな勉強会に講師として来ていただけないかと、三好さんに思い切ってお願いをしたことがある。仲間たちはみな「あんな偉い人が来てくれるわけがない」と高を括っていたが、三好さんは快諾して来てくれたという。それ以来40年間、師弟関係のようなお付き合いが始まった。
「僕のことをどう思ってくれていたのかわかりませんが、たまに電話があって、今度札幌に呼ばれてるんだけど一緒に行くか? とか誘ってくれるようになった。僕はカバン持ちとして、できる限りついて行きました。僕には東京以外に人脈がなかったので、全国で活躍している不動産会社の人たちを見たかったんですよ。雑誌とか本ではなく、現場に行きたかった。あれは本当に勉強になりましたし、地方の方々の凄さと、その弛まぬ努力を肌で感じましたね」
ネットもない時代にアメリカへ。日本の賃貸管理を近代化させた「カバン持ち」の執念
三好元会長は、不動産賃貸管理業の地位向上に情熱を注いでいた。そして当時から海外に目を向け、「アメリカから学ばなくてはならない」と考えていた。やがて三好さんが率い、総勢76名で臨むアメリカ視察に、塩見さんは同行することになる。1996年、今からちょうど30年前のことだった。
「そのとき三好さんは、アメリカの管理会社と、そこが使っている賃貸管理のシステムを見たいと。そして売買ではなく賃貸管理業をメインにしている協会とネットワークを作りたいとおっしゃった。視察にあたって、この3つが私に課せられた宿題でした」
まだインターネットもない時代、旅行代理店の力も借りて探し当てたのが、全米の賃貸管理業者や不動産経営管理士を束ねる団体、IREMだった。日管協はこのIREMと友好協定書を結び、帰国の手土産としてCPM(認定不動産経営管理士)の教科書を持ち帰った。そして帰国後、その教科書を日本語に訳してみたら、その内容の凄さにみんなが驚いた。
「IRR(内部収益率:投資の収益性をパーセントで示す指標)とか、NOI(純営業収益:不動産賃貸事業における実質的な現金収入を示す指標)といった、当時は見慣れない言葉が並んでいました。不動産賃貸で家賃を上げて利回りを上げ、価値を上げていくための理論が書かれていたのです。三好さんはそれを見て、『もう理論が出来上がっている。これを日本に導入できたら、日本の賃貸管理業が変わるぞ!』って感激されていましたね」
その後、塩見さんは仲間とともに勉強して、日本でのCPM資格取得者第1号になった。
「本当は三好さんが第1号であるはずなんですが、三好さんは病気で倒れてしまいました。まさに青天の霹靂でした。それで覚悟を決めて志の高い仲間と共に後を継いだのです」

深圳で見た自動運転、ドローンの衝撃。立ち止まらない会長が若者に贈る「感謝の力」
塩見さんは2022年に日管協の第八代会長に就き、これまで協会を牽引してきたが、今年の6月に会長を交代することが決まっている。しかし会長職が変わっても、のんびり隠居する気などまるでなさそうなのは、彼の話を聞けばわかる。
「昨年の末に、どうしても行きたかった中国の深圳に行って来たんですよ。テンセント、ファーウェイ、DJIを訪問して、自動運転車やドローン技術をこの目で見て、いろんな話を聞いて来ました。いやすごいですよ。このままじゃ日本はやばいね。頑張らなきゃ」
そして67歳になった今も、人と人をつなぎたいという彼の欲求は衰えることがない。
「この間も僕が企画して、この業界の女性だけの会をやったんですよ。最前線で活躍されている3人の方に集まってもらって。この3人はお互いを知ってはいるけど、ライバルでもあるから話したことはなかった。僕はそんな人たちをつなぎたくなるんですよね。で、見事につながりましたよ。意気投合してくれた。うん。あとはもう放っといても大丈夫です」
そう言って塩見さんは、嬉しそうに笑った。人との出会いに導かれ、人のために動き、人に頼まれごとをしたら躊躇せず引き受け、人と人とをつなぐことに生きがいを感じるという塩見さん。就職する時も転職の時、大義名分を掲げることなく、流れに身を任せるかのように飄々と対峙しながら、結果的に誰もが憧れるような成果を生み出してきた塩見さん。そんな彼に、新社会人へ向けて、とりわけ新生活が始まったばかりの悩みを抱え始めた方々へ向けて、応援のメッセージをくださいともお願いしてみた。
取材・執筆:宮川貫治
撮影:阿部拓朗
株式会社明和住販センター・代表取締役社長。日本賃貸住宅管理協会・会長。昭和61年7月、株式会社明和住販流通センター設立。令和元年5月、公益財団法人日本賃貸住宅管理協会 会長就任。
株式会社明和住販流通センターHP:https://www.meiwa-g.co.jp/
公益財団法人日本賃貸住宅管理協会:https://www.jpm.jp/