小説家 平野啓一郎さんが語る「私とは何か?」―「分人主義」という新しい考え方で、人生が違って見えてくる―
あなたは、日常のいろいろな場面で居心地の悪さを感じたときに、「場の空気」に合わせたキャラを演じることで、その場を切り抜けたことはないだろうか?そうしてあとで、あれは「本当の自分」じゃないんだと言い聞かせたことは?
あの時、嫌々ながら愛想笑いで切り抜けたのは、その場限りの表面的な自分であり、学校や会社でなんとなく満たされない自分は、かりそめの姿に過ぎない。そう割り切ることで、「本当の自分」の価値を守ろうとしてはいないだろうか。
そんなモヤモヤを抱えながら生きているあなたに向けて、小説家平野啓一郎さんは、その著書「私とは何か 「個人」から「分人」へ」(講談社)の中で、こう提案している。「他者と共に生きるということは、無理強いされた『ニセモノの自分』を生きるということではない。それはあまりに寂しい考え方だ。すべての間違いの元は、唯一無二の『本当の自分』という神話である。こう考えてみよう。たった一つの『本当の自分』など存在しない。裏返していうならば、対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて『本当の自分』である」と。
©︎Tamaki Yoshida
1999年、京都大学在学中に発表した小説『日蝕』(新潮社)で第120回芥川賞を、当時最年少タイの23歳で受賞した平野さんは、近年、「個人から分人へ」を提唱している。「個人」という日本語は、英語のIndividualの訳語で、明治時代に使われ始めた言葉だそうだ。In+Dividualという構成で、Divide(分ける)という動詞に由来するDividualに、否定の接頭語Inがついたもの。だから英語的には「もうこれ以上分けられないもの」「不可分のもの」という語源的な意味がある。だが、本当に個人とは不可分のものなのか? 私たちの人格は、体と同じように、分けることができない唯一のものなのだろうか?
平野さんは、「たとえば会社で仕事をしているときと、家族と一緒にいるとき、私たちは同じ自分だろうか?あるいは、高校時代の友人と久しぶりに飲みに行ったり、恋人と二人きりでいるとき、私たちの口調や表情、態度は、随分と違っているのではないか?」と考え、そういった対人関係ごとに見せる複数の顔、つまり複数の自分を、平野さんは「分人」と名付け、「個人」という概念だけでは説明のつかない、現代人の実情に適う思想を作り上げようとしている。
学校にいる時の自分とか会社にいる時の自分というのを、「自分の全部」だと思わないで、あくまで「分人」の一部だと思ってほしいんですよね。
周りになじめなかった中学生時代
今はニューヨークで暮らしている平野さんに、オンラインでインタビューする機会を得た。まず、平野さんはいつ、どのように、「分人」について考え始めるに至ったのか?について尋ねた。「自分自身が、社会的な自己と、一人でいる時の自分の在り方の間に、一種の分裂がある、齟齬がある、と感じるようになったのは、中学生時代ですね。学校の雰囲気が好きじゃなくて、馴染めないというのが大きかった。友達はけっこういたので、不登校になるほどの拒絶反応があったわけでもないんですけど、あまり楽しくないというか。
ただ、分人という言葉はまだ考えついていなくて、学校にいる時の自分と、家にいる時の自分というように捉えていた。家で本を読んだり音楽を聴いたりしているときには、体の内側から湧き起こってくるような、感動や興奮があって、それは、学校でしゃべっている時の自分とはまったく違った実感でした。そこからだんだん、家で好きなことに没頭している時の自分が本当の自分で、学校にいる時の自分というのは、何となく環境に適応して、ある種の仮面をつけている自分、のようなことを感じるようになりました。ですから10代の半ばくらいからだと思います」
分人について考え始めたきっかけ
さらに平野さんは、その頃のご自身を振り返って、「分人」についての考察を始めたきっかけについて、2つのテーマに分けて説明してくれた。
「1つは、対人関係ですね。コミュニケーションの中で、自分と違った人とコミュニケーションを交わそうとすると、どうしてもいろんな自分にならざるを得ないわけです。そうすると、本当の自分とか、自分らしさというものが強調される文脈の中では、自分らしく生きていないというか、友達に合わせているだけのような気がして、本当の自分じゃないんじゃないか?という感じがしてくるわけですよね。
もう1つは、社会の中で生きていくことを考えたときに、自分らしく生きるということが、就職と強く結びついていって、自分がやりたい職業に就くことが自分らしく生きていくことなんじゃないか?という風に考えていた。もしあの時、人間関係も就職もうまくいっていれば、「自分らしく生きる」ということに矛盾もなかったのかもしれませんけど、僕の場合、文学が好きだったので、まず職業として文学を選ぶことが可能なのか?という問題があった。自分らしく生きるということが、文学が好きということと結びついて、僕は難しい状況に直面したわけです。
時代的な問題がそれに輪を掛けました。ちょうど就職氷河期(バブル経済崩壊の影響により就職難となった1993年頃〜2004年頃)が始まった時期で、どんなに社会の中で自分らしく生きたいと思っても、なかなかうまくいかない世代だった。それで、社会の中で自分らしく生きる、本当の自分を生きるっていうことはなんなのか?と考えることになった。社会に出て働くうえでコミュニケーション能力が非常に強調される一方で、ありのままの自分でいましょう、というようなことも言われる。その矛盾について考えました。
近代の社会は「個人」という概念をベースに成立しています。個人に基本的人権を与え、選挙権を与えて、経済活動の契約主体としている。ところが人間のコミュニケーションの次元では、どうしても首尾一貫した一人の自分だけでは収まりきれなくて、いろんな自分を生きている、という現実があるわけです。その中でいろいろな自分を生きているという現実と矛盾しないような概念を考えようとした時に、人間は分割できない1つの人格を生きているわけではなくて、対人関係ごととか、場所ごととかの、いろいろな自分を生きているということを表現できるモデルが必要だなと考えて、それが『分人』という概念にたどり着くきっかけになりました」
「一神教」の伝統と、「個人」という分けられない存在
平野さんが「個人」という概念に着目して、「分人」を考えるに至ったのは、彼がキリスト教系の中学で学んだことと関係があるのかもしれないと思い、尋ねてみた。すると平野さんは、「それもあると思いますけど、より決定的だったのは、大学で受けた『政治思想史』の授業でしたね。小野紀明先生の授業がとても面白かった。ヨーロッパの思想には二つの源流があります。一つは、古代ギリシャ哲学に由来する『ヘレニズム』。もう一つは、”唯一絶対の神を信じる“ユダヤ・キリスト教由来の『ヘブライズム』。ヨーロッパの思想は、この二つが混ざり合いながら発展してきたわけですが、近代になると、ヘブライズムの『一神教』、つまり”神は一人しかいない”という考え方と、その唯一の神と向き合う『個人という、分けられない一つの存在』が強く結びつく形で発展していった。『個人』を意味する英語のインディビジュアル(Individual)というのは、『ディバイド(Divide)できない』、つまり『分割できない存在』という意味なんだ、と理解することで、ヨーロッパ近代の思想がよく理解できるようになりました。その時に『じゃあ、個人ではなく分人だ』と閃いたわけではないですが、これがのちに『分人』について考える大きなきっかけになりました」
そして平野さんはこう続けた。「ペルソナ(ラテン語の『Persona』:『仮面』や『人格』といった意味を持ち、ギリシャ古典劇の役者が使う『仮面』に由来)というのは、読んで字の如く一種の表面的な仮面ですから、それをかぶる実体がある、というのがペルソナという考えなんですけど、僕はそれを否定しているんですね。いろんなペルソナをかぶる『本当の自分』というものが1個あるんじゃなくて、いくつもの分人の集合体に過ぎないと考えているので。
そうしないと、自己肯定や自己嫌悪というメンタルの問題をどう扱うべきかと考えたときに、『表面的な仮面』と『本当の自分』というモデルでは、結局、表面的な自分は仮面に過ぎなくて、本当の自分を大切にしましょうという話にしか着地のしようがないんですね。だけど、じゃあ本当の自分って何なのか?とか、自分が嫌だからこそ苦しんでいるのに、という問題が起きてくる。一方で、仮面をかぶっているように見える人間関係の中に、実は心地よいものがあったりもするのに、それらがすべてペルソナとして扱われてしまうこのモデル、つまり『表面的なウソの自分と、本当の自分』というモデルには、非常に問題が多いと思う。
それに対して、人間は分人の集合体なんだ、という考え方をすれば、対人関係ごとの自分や環境ごとの自分が、ある意味で客観的に評価できるので、好きな自分と、ストレスになっている自分というのを、どうやってバランスを取っていくかということを見ていくことが可能になる、というのが、僕のアイデアでした」
社会的、歴史的状況の中の人間を描く
ここまでの平野さんのお話にも、「対人関係と時代的な問題」とか、「対人関係ごとの自分と環境ごとの自分」といった言葉が登場したが、平野さんの小説では必ずと言っていいほど、人間の内面と同時に、それを取り巻く時代的・社会的な環境が丁寧に描かれている。その点について尋ねてみると、「だいたい僕の世代は、『就職氷河期世代』なので、個人の努力ではどうしようもない社会的な問題のために人生が大きく左右された経験をした世代なんです。文学の中でもやはり、ある社会的な状況、歴史的な状況の中で、1人の人間の運命が定まっていく、ということを書かないと、文学自体も自己責任論になってしまう。登場人物が性格的に前向きで頑張る人間であれば、ヒロイックに困難に打ち勝っていくし、そうじゃないと立ち直れない、みたいな話にしてしまうと、もう救いがない。ですから、もちろんそこには本人の性格的な問題というのもありますけど、それでも文学として書く時には、その時の社会構造を書いていかないとダメなんじゃないか、というのが、僕の基本的な考え方なんですよね」
「前期分人主義」と「後期分人主義」
公式サイトには、平野さんがこれまでに書かれたたくさんの小説が、初期から第五期までの期間に分けられて並んでいる。「自分は時期によって、ものすごく作風が異なるので、どういう時期に、どういうことを書いたかを明確にした方がいいと思い」、平野さん自身が分けたのだそうだ。それは、ご自身が自分の仕事を整理しながら創作活動を進めていくためでもあるが、読者が何から読み始めて、次は何を読むのがいいかを考える上でのガイドにしてもらうためでもあるという。その5つの区分の中の、第三期が「前期分人主義」に、第四期が「後期分人主義」にあたるのだが、その違いは何か?について尋ねた。
「前期というのは、どちらかというと、主体の分化ということに着目しています。1人の人間は1人であるという固定された考え方に対して、いや、人間は内容的にも多様性があるんじゃないか?ということを、より強調したかった。
後期と呼んでいる作品では、人間は外界とか他者との関係性の中で、多様な自分を生きているので、むしろその環境とか制度的なものとの関係を強調しながら分人という現象を見ていこうというふうに、重点の置き場所を変化させたという違いがあります」
悩める若者たちへ
最後に、平野さんから悩み多き若者たちに向けて、メッセージをいただいた。
「5月病とか、夏休み明けとかの、また学校が始まる、会社が始まるタイミングは、やはり心理的な負担が大きくなります。だけど、学校にいる時の自分とか、会社にいる時の自分っていうのを、自分の全部だと思わないで、あくまで『分人の一部』だと思って欲しいんですよね。自分の中には、ゲームをやったり友達と遊んだりという、楽しい時間を過ごしている自分も含まれているはずなので、それを全否定するっていうのは、僕は非常にもったいないことだと思うんです。分人ごとに自分というものを考えて、本当にストレスになっているのは、どの分人なのか?ということを考え、無理してその自分でいなくていいようにする。少し休むとか、フリースクールに行くとか、会社を変えるとか。その環境を整備する方向から、ストレスに対処することを考えてもらいたいなと思います。
嫌だったら学校なんか行かなくていいじゃないか、会社休めばいいじゃん、っていう意見もあるけど、自分を『分けることができない一つの自分』っていう風に考えると、じゃあ会社に行かなくなった自分って、いったい何なのだろう?とか、学校に行かなくなって自分の将来はどうなるんだろう?と不安になってしまう。
だけど分人として考えるなら、会社に行かない、学校に行かないとしても、『自分の中の一部分の活動を休止するだけ』で、他の部分の活動はそのまま持続していると理解できる。たとえば家からオンラインで仕事するとか、勉強するとか、いろいろありますから。
今、僕はニューヨークにいるけど、娘の友達で、シカゴでアイススケートに夢中だった子は、朝の4時からリンクで練習して、学校には登校しないで、授業は全部オンラインでニューヨークの学校の授業を受けていたそうです。結局、その後、家族でニューヨークに引っ越してきて、娘のクラスメートになっているのですが、そういうようなことが今はできるようになってきている。つらいと思ったら自分を全否定して考えるのではなく、まず周りの人に相談して、部分的に色々なことに携わって、好きな分人を見つけるような解決方法を探って欲しいなと思います。かならず何か方法はありますから」
さて、冒頭で紹介した平野さんの著書、『私とは何か 「個人」から「分人」へ』の“まえがき”は、こんな言葉で結ばれている。「メディアが発達し、人間関係がますます複雑化する中で、今日ほど、『コミュニケーション能力』が声高に叫ばれている時代もない。そのために、多くの人が、アイデンティティについて思い悩んでいる。私とは何か?自分はこれからどう生きていくべきなのか?旧態依然とした発想では、問題は解決しない。現代人の実情に適う思想を、一から作っていくべき時代である」
そして、悩める若者たちへ向けた平野さんのメッセージは、こんな言葉で締め括られた。
「たとえば18年くらいしか生きてない中での高校生活の3年間は、長く感じられますよね。高校が自分に合わない場合、その3年間は人生の6分の1を占めるわけです。だけど僕みたいに50歳くらいになると、50分の3というのは本当に微々たるもので、短い時間です。長く生きれば自分が辛かった時期が占める割合は、比率としてはだんだん小さくなっていくし、その後に思いもかけないような良いことが必ず待っていますから、そのことを楽しみにしてほしいです。
自分で言うのもなんですけど、僕は瀬戸内寂聴さんとか、横尾忠則さんとか、ドナルド・キーンさんとか、自分の尊敬している人たちと親しくさせてもらったり、今もさせていただいていますけど、僕がそういう人たちと出会ったのって、彼らが80歳を超えてからとかなんですね。横尾さんはもうちょっと前ですけど。いくつになっても気の合う人に出会って楽しい時間を過ごせる可能性はありますから、そういう意味では、10代とか20代で人生を絶望するなんて早すぎると思います。本でいうと、300ページくらいの本の最初の10数ページだけで、読むのをやめてしまうようなものですから。それは非常にもったいないと思います。一人で抱え込まずに人と相談してほしい。自分の人生について書かれた伝記を、死ぬまでに書き上げられるとすると、まだ本当に冒頭の数ページくらいですから、残りのページを楽しみに、がんばって欲しいと思います」
取材・執筆:宮川貫治
撮影:Tamaki Yoshida

1975年、愛知県蒲郡市生まれ、福岡県北九州市出身。京都大学法学部卒。在学中の1999年に文芸誌『新潮』に投稿した小説『日蝕』(新潮社)で第120回芥川賞を受賞した。以後、一作毎に変化する多彩なスタイルで、数々の作品を発表し、各国で翻訳紹介されている。 主な著書に、小説『葬送』(新潮社)、『高瀬川』(講談社)、『決壊』(新潮社)、『ドーン』(講談社)、『空白を満たしなさい』(講談社)、『透明な迷宮』(新潮社)、『マチネの終わりに』(文藝春秋)、『ある男』(文藝春秋)、『本心』(文藝春秋)等、エッセイに『本の読み方 スロー・リーディングの実践』(PHP研究所)、『小説の読み方』(PHP研究所)、『私とは何か 「個人」から「分人」へ』(講談社)、『「カッコいい」とは何か』(講談社)、『死刑について』(岩波書店)、『三島由紀夫論』(新潮社)等がある。 2024年、短篇集としては10年ぶりの発表となる最新作『富士山』(新潮社)を刊行。2025年夏、過去7年間に書いた文学論・芸術論を収録した最新エッセイ集『文学は何の役に立つのか?』(岩波書店)、新書『あなたが政治について語る時』(岩波書店)を刊行。
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