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STORIES 2019/01/08

人の目を気にしなきゃいけない、なんてない。

ワールドワイドに展開するメガブランド「MICHIKO LONDON KOSHINO」を指揮し、日本屈指のファッションデザイナーとして知られるコシノミチコさん。斬新なアイデアと個性あふれるクリエイティビティで常に業界をリードする彼女は、提案するスタイル以上にユニークなキャリアを歩んできた。一体どのようにして現在のポジションに至ったのだろうか。

全員がトップデザイナーという、非常に稀有(けう)な存在のコシノ三姉妹。末っ子のミチコさんも、「MICHIKO LONDON KOSHINO」ブランドで世界中からリスペクトを受けている。短大を卒業後、単身イギリスに渡って才能を開花させた彼女。空気によって膨らませるインフレータブル・ジャケットをはじめ、オリジナリティあふれるプロダクトは、特にクラブカルチャーやミュージックシーンに強い影響を与えた。

ファッションを学校で学んでいないにもかかわらず、なぜ唯一無二と評されるほどの存在になり得たのか。そこにはチャンスを逃さない肝っ玉の太さ、物怖じしない強さがあった。

姉たちの小間使いで終わりたくない。
その一心でロンドンに渡った

世界的デザイナーであるミチコさんは、意外にも軟式テニスで日本一になった経験があるほどの、体育会系女子だった。

「私は小さい頃から周囲が呆れるほど運動神経が発達していたんです。小学校ではドッジボールでもうんていでも、外ならなんでもトップ。中学校に入り、遊びで一番になっても仕方ないからテニスをやるように」

高校も屈指のテニス強豪校へ進学し、好成績を残した。

「スパルタでしたね。新入部員がたくさんいた1年生のときなんて、誰より素早い私は日没まで球拾い。日が落ちた頃ようやくコートに立ってスマッシュの練習を。でも、高く上がったボールが見えないくらい真っ暗。見えませんって言うと、先生が“心眼”で打つんじゃと」

見えないならとミチコさん、ボールが上がったら振り向いてボールを見ずに走り、落ちてきそうなポジションでストップ。そしてスマッシュを決めるようになった。

「自分でも無理だと思ったプレーができたものだから、人にはできないことをすれば絶対に何ものにも勝てるんだって悟りました」

手取り足取り教わらないと正しくできないという日本人らしい考えを、彼女は高1にしておかしいと気付いたわけだ。

「習わずとも自分で経験するというのが大切。それをテニスで知りました。教えてもらってないから無理だと思い込んではダメなんです」

短大卒業直前、全日本学生選手権ダブルスで連覇中のペアと対戦。見事に勝利するも、即引退してしまう。

「勝ってやめようと決めていたんです。だから、そのままラケットと自分なりのテニス理論が書かれたノートを後輩にあげ、寮には手ぶらで帰りました。そもそもテニスを始めたのは、母のアテンションを得るため。未練はなかったです」

2人の姉がいる彼女、とにかく一番下には何も下りてこなかったそうだ。

「姉いわく、長女次女、下女なんですって(笑)」

不意に浮かんだ外国に行く自分の姿

短大卒業後は洋裁店を営んでいた母親、綾子さんのお手伝いが主に。そして、デザイナーとして世に出ていた姉たちのヘルプもするようになる。

「でも、若いうちに自分のダイレクションを考えないと、小間使いだけで一生が終わってしまうとよぎって……。どこかに身を移さねばと思っていた矢先、東京のジュンコ姉さんの手伝いに行く途中で、綺麗な東京弁のお嬢様に声をかけられたんです」

連れて行かれたのは、看板も飾りもない質素な教会だった。直感的に「効きそう」と思い、初対面にもかかわらず丁寧に祈られ感激した彼女。その足で洗礼まで受けさせてもらう。

「そのとき、外国に行く自分の映像が頭に浮かんだんです。今まで思いもしなかったことなのに」

不思議に思い、姉に相談をすると次のように言われた。

「冗談は顔だけにし。はよ寝て忘れ。明日も覚えているならお母ちゃんに相談したら」

翌朝、やはり強いイメージが残ったまま。

「母に話すと、思いがけず賛成されてしまい。むしろ私らができんことやってこいと、積極的に背中を押されました」

渡った先はロンドン。姉たちの影響を少なからず受けるパリやイタリア、ニューヨークはあえて避けた。

「だって、彼女たちの友達がいる街では、私がホームレス状態になったら、お前の妹がおかしな格好していたぜって笑われてしまうでしょう?」

貧しい暮らしから偶然によりデザイナーに

実際、渡英直後は非常に苦しい生活だった。明日、パンと牛乳買ったら終わり。そんなギリギリの繰り返しから脱出したのは、偶然の出会いから。

「ある日、日本人のデザイナーと知り合ったんです。すると、ご飯食べにおいでと電話をくれて。タイミングが絶妙でした。もう25ポンドしか持っていなく、一食済ませたら無一文になる直前だったんです」

その食事の場にはいろんな人種のデザイナーがいた。デザイナーになりたいとは一言も発していないのに。

「その中の一人が言うんです。会社を辞めたいけど、代わりが必要。あなた面接に行ってみたらと。私はできるかわからないけど、難しかったら放ればエエわって感じで安請け合い」

いざ赴くと、応募者全員が有名美術学校のファイルを持ってきているような大きな会社。何もない彼女はノープランで着席した。

「ポンと座ったら、どうやってあなたを認めればいいの?と聞かれて。見せるものないんです。だけど……、パッと閃きました。よっしゃ!もう一度来ていいですかって。実際よっしゃなんて言ってないですけど(笑)」

許可をもらい、翌日ビデオテープ持参で再訪。面接官は熱心にチェックし、なかなかの好感触を得た。

「これ素晴らしいね、あなたのコレクションか?の問いに、 NO!って答えて、またみんなズッコケ」

お姉さんが発表したコレクションのVTRを見せたのだ。

「一緒に仕事していたから、テイストだけ認めてくれって言い切ったんです。すると、変わった子が来たな、という空気になり作業場へ」

現場は勝手知ったる母の仕事場とそっくりだった。トライ(仮縫い)用のシーチング生地をもらい、自分で染めて裁断、縫製すると、会社専属のモデルが気に入り、オーナーの耳にも入った。

「専属のスタッフをつけるから、3週間でコレクションにしてくれとオーダーされました」

なんとか形にすると、展示会は大成功。一流ファッション誌のVOGUEに見開きで扱われるほどのヒットを送り出した。これにより、デザイナーとしてのキャリアがスタート。

「私はデザイナーになるつもりもなく海を渡りました。ファッションを学校で教わってもいません。ただ、3〜4歳のときから母の仕事場で遊んでいて、洋服作りと身近に接していただけ」

母親の下にいた若い見習いたちは、来て3カ月後にはスーツ、ジャケットが縫えるようになっていたそう。

「特に習ったわけでもないのに、作業していくうちに身につくんですね。服って裏地を剥がせば全て仕組みがわかるもの。それで十分なんですよ。だから、私は洋服作りを難しいと思ったことがありません」

ヒットを連発し世界的な知名度を得る

渡英して1年後に独立すると、順調に規模を拡大した。

「私ね、冬物が得意なんです。気温の低いヨーロッパは、ウインターシーズンがアパレルの勝負時。みんなが質の良いアウターを欲しがるから」

彼女が1970年代に発表した暖かくて軽いコートは、ヨーロッパ中の女性を魅了。スイスやドイツのバイヤーたちが一人につき300〜500枚もオーダーし、安定した収入源に。

「10年売れ続けました。今でも取り扱ったショップの人に、あのかわいい服作った人でしょう!と言われます。5枚持っていると自慢してくれる人も」

そのヒット作には欠点もあった。かさが張るため、パッキングだけで一仕事なのだ。

「朝から晩まで梱包して、オフィスが段ボールだらけに。解消しようと作ったのが空気を入れられる服、インフレータブル・ジャケット。1stは’83〜’84年に登場し、以来、ブランドのアイコン的な存在になりました」

’90年代にはエンジーンズをサプライ。1シーズンで1万本以上がストリートに旅立っていったこともあった。

誰の目も恐れず堂々と胸を張る

「一生に3回チャンスが来るといわれているけど、私には8回くらい来ています」

笑いながらミチコさんは言う。しかし、チャンスは幸運だけでは掴めない。肝心なタイミングで物怖じしない強さを彼女は持っている。

「ヨーロッパだと日本の人はすぐに一歩譲ってしまう。本当はもっともっと素晴らしいのに、もったいないですよ。すすんではあいさつすらしない。みんなからグッドモーニン! と言われて、ようやくペコッみたいな。それが謙虚だと思っているみたい」

ファッションに関しても疑問を呈する。

「日本人が洋服似合っていないのは、好きな服を着ていないから。歳だから、結婚したから、子供がいるから。勝手に縛られちゃっていますよね。これ似合う? どうして人に聞くのですか。好きなら着ればいいんです。お気に入りなら着ていれば必ず似合ってきますから」

人から見てどうなのかを気にするのは、日本人の良くないところ。それを背負って外国に来るのは恥ずかしいとも。

「もっと堂々と歩いてほしいです。どんなファッション、スタイルでも何も恥ずかしくありません。英語が話せなくたって構いません。現地はめちゃくちゃなんですよ。How old are you?なんて使わない。What age?で済んじゃう。意思を持って話していれば通じるんです」

結果が一緒なら気付かない方がいい

人の目を気にして、物怖じしていては何も得られない。学校で習っていないからといって、チャレンジしなかったら可能性は広がらない。お皿に1つだけ残ったビスケット、卑しく思われたくないからと、手を出さずにいては飢え死にする。似合っているかわからないから、周りと同じ服を着る。それでは誰も振り向いてくれない。ミチコさんは間違った謙虚さや遠慮が、愚かだと教えてくれた。

会社を30年以上やっていると苦しいときもあります。ある日、会社が大変なのわかっている?と言われましたが、へぇそうやったんかと返し、呆れられました。でも、気がついてもつかなくても、結果が一緒なら気がつかない方がいいでしょう。私はいつもそういう気持ち。人がどう思っているかは問題じゃないんです。気付きすぎだと疲れちゃいますよ。人の目なんか気付かないくらいでいいのでは
Profile コシノミチコ

大阪府岸和田市出身。「MICHIKO LONDON KOSHINO」デザイナー。NHK朝の連続テレビ小説「カーネーション」のモデルとなった日本のファッション界の第一人者、コシノアヤコの三女。ヒロコとジュンコ、2人の姉もデザイナーでありコシノ三姉妹と称される。1973年からロンドンを拠点に活動。斬新なプロダクトを次々に生み出し、そのコレクションは’80年代ストリートカルチャーの象徴として、英国王立ヴィクトリア&アルバート博物館に納められている。日本人初の英国ファッション協会(BFC)正式会員でもある。

オフィシャルHP http://www.michikokoshino.co.jp

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