死ぬまでに達成しなきゃいけないこと、なんてない。―新聞記者を経験後にデンマークに移住したジャーナリストが知った「第3の時間」の豊かさ―
帰宅のラッシュアワーは午後4時ごろ。残業はせず、平日でも家族や友人とゆっくり過ごすーー。日本の新聞社に17年間勤めた井上陽子さんにとって、移住したデンマークの日常は驚くことばかりだった。
だが、そんな国に住むようになったのに長時間労働の習慣を手放せない。それまでは時間をかけることで仕事のクオリティを上げようとしてきたから。でも、仕事に重きを置きすぎることの問題に、次第に気づくようになる。デンマーク人の夫との関係が試練を迎えたことも重なり、自分と仕事との関係を見つめ直した。思いがけない自身の変化もあったという。
井上さん、過去と向き合うことで手放せたものって何ですか。
国立大学を出た後に新聞記者になり、米ハーバード大学大学院に留学。ワシントン駐在を経て結婚後はデンマークに移住。こんな井上さんの半生を聞くと「成功を手に入れた人」と感じるかもしれない。でも実は、ゴールを次へ次へと動かし続けることに、苦しんできたという。全力で走り続けた日本での暮らしと、別世界のようなデンマークでの暮らし。悩んだ末に見えてきたという新たな時間との付き合い方は、何かを変えたいと感じている人にとって大きなヒントを与えてくれそうだ。
目の前にあることを楽しみ、目の前にいる人の話をちゃんと聞くことが大事なんだな、と思うようになりました。そうじゃないと、「今」がどんどんすり抜けていく。
「男性社会に“入れてもらった”のだから、がんばらなくては」という気持ちだった
幼い頃から「器用な子どもで、学校の成績もやたら良かった」という井上さんは、周囲の期待に応える経験を重ねるうちに、自分がやりたいことよりも周囲から見て「どういうことができたらすごいか」に敏感にアンテナを合わせるようになっていったという。
新聞社に入ったのは、新聞を書く側になれば、世の中のことが分かるようになるのでは、という好奇心からだった。
「狭き門だと言われていたけど、狭ければ狭いほど挑戦してみたかった。同期約40人のうち女性は5人。男性社会に入れてもらったのだから『採用してもらった分がんばります』という気持ちでした」
新聞社では「夜回り」といって、警察幹部や政治家の自宅などで時には数時間も帰宅を待ち続けて話を聞く手法がよく使われる。表立っては話をしてくれない人でも、周囲に誰もいない状況なら取材に応じてくれることがあるからだ。
早朝から夜遅くまで仕事をすることも日常的。いつでも会社からの電話に応じて、すぐに取材現場に駆けつけられる体制でいることを求められる。帰宅できないけれど眠りたい時には電車に乗り、そこで仮眠を取ることもあった。
「山手線だったら、呼び出されても現場まですぐに移動できる。体力的にかなりきつくても、弱音を吐けないし、男性並みに働かなきゃいけないということを意識していました。めちゃくちゃな働き方をしていたかもしれないです」
自民党初の女性総裁となった高市早苗・現首相が「ワーク・ライフ・バランスという言葉を捨てます。働いて働いて働いて働きます」と発言したのを耳にした時、井上さんは「男社会で猛烈に働いてきた自分を思い出した」という。
「高市さんも、強烈な男社会を生き抜いてきた方でしょうし、『女性でもできます』と言わなくてはいけないんだろうな、と。あくまで私の想像ですが、そんな印象を持ちました」
ハーバード大学でポジティブ心理学に出会う
新聞社に入社した時、希望したのは政治部記者、そして、米国ワシントン支局の特派員だった。でも、地方支局時代にがむしゃらに働いた井上さんが異動することになったのは、社会部だった。

失望しながらも、夜回りをする日々。ふと「この夜回りの時間を使えば何かできるかも」と考えて、留学のための勉強を始めた。努力が実り、在職したままハーバード大学大学院へ留学する機会を得る。公共政策について学ぶかたわら、幸福について、科学的根拠に基づいて学ぶ「Positive Psychology(ポジティブ心理学)」の授業を受けた。「幸せは不幸を取り除けば自発的に生まれるわけではない」「時間の豊かさは物質的な豊かさよりも幸福度に影響する」……。大学の歴史上、登録学生数が最多となったというクラスは強く印象に残った。その授業にもインスピレーションを受け、
しかし、再び忙しくニュースを追いながら、特ダネ競争に勝つことが優先される環境のなかで、なかなか企画は実現しなかった。先輩記者に「私は本当は、こういう記事が書きたいんです」と相談したこともある。でも、「それは、今ある仕事をしっかりやってから」と諭されるうちに、次第に希望とやる気を失っていった。
「生き延びるだけで大変なんですよね。とにかくやることが多すぎるし、日々の仕事をこなして、眠る時間を確保するだけでも精いっぱい。目立つ特ダネよりも、本当はこういう記事の方が価値があるのでは、と思っても、そんな本質的な議論をする余裕もなく、評価されやすい仕事の成果を出すことばかりしてきたところがありました」
デンマークの働き方に戸惑う
そんな井上さんに転機が訪れる。38歳の時に、米国ワシントンに赴任することになったのだ。
「上司からワシントン行きを打診されたのですが、実はその数ヶ月前に、のちに夫になる男性に出会っていたので、行くかどうかもすごく迷いました」
米国特派員は入社時の目標だったとはいえ、30代後半になり、家族が欲しいと思うようになっていた。付き合い始めたばかりのデンマーク人の恋人は、当時日本で暮らしていた。「家族を持てる機会をふいにするのかもしれない」と葛藤しながら、異動の打診を引き受けた。
赴任1年目に妊娠したとき、「困った」との思いも一瞬頭をよぎったが、職場の理解を得て、デンマークで育休を取ることに。復職するつもりでいたものの、夫は「子育てするなら絶対にデンマークがいい」と言う。悩んだ末に新聞社をやめ、デンマークに移住することを決断した。そして、それまでとは全く違う生活が始まった。
デンマークの一人当たりGDPは日本の2倍以上、平均年収も日本の1.5倍。2022年にはスイスのビジネススクール・国際経営開発研究所(IMD)の調査で世界競争力ランキング1位になった。同年、日本は63カ国中34位だった。
こうした現実に、井上さんは戸惑っていた。デンマークの労働時間は、フルタイムが週37時間で、残業はほとんどない。それで、この経済パフォーマンスを上げているのである。フリーのジャーナリストとして海外特派員らが机を並べる「International Press Centre」で仕事をしていたが、そこでも、午後5時をすぎると周囲には誰もいない。そして、静まり返った部屋でパソコンに向き合っている時に、夫から子どもたちの楽しそうな写真が届いたりする。「子どもが小さい時期なんてあっという間だよ」と夫から言われるうちに、自分の働き方は間違っているのだろうか、と思うようになった。

ある日、井上さんは、夫からカップルセラピーに行くことを提案される。夫婦やパートナーが関係性を見直すために行く対話の場だが、セラピーに行ったものの別れたカップルも周りにたくさんいた。
危機感を覚えた井上さんは、それまで取材してきたデンマーク人たちの働き方を、自身も取り入れることにした。午後4時には帰宅すると決めて、仕事に優先順位を厳しくつけ、難易度の高い順に午前中から取り組む。そうやって集中して仕事するようになってみると、午後4時に帰宅しても、仕事の進捗具合は大して変わらないこともわかった。その一方で、家に早く帰るようになったことで、夫の満足度は大きく上がった。
それでも、最後まで手放せなかったものがある。それが「仕事と自分のアイデンティティを重ねる」という考え方だった。
デンマークの様子(井上さん提供)
ゴールを動かし続ける「成功地獄」から抜け出すには
相手が求めているものを察知し、期待されている以上のものを成果物として出す。そうすれば相手は評価してくれるし、周囲も「すごいね」と言ってくれる。そして「できる自分」がアイデンティティになっていくーー。
日本では、こんなふうに生きている人は少なくないのではないか。井上さんにもこの考え方が染み付いていた。セラピストからしきりと「あなたはどう思うの」と聞かれて、最初は怒りすら感じたという。
「日本では『ごちゃごちゃ言ってないで、やることをやれ』と言われるようなところがありますよね。違和感があったとしても、心を鈍らせながら前に進む訓練をしてきたから、『あなたは?』と聞かれると『私がどんな感情を持とうが、今まで関係なかったでしょ』という思いが出てきたんです」
過去に封印していた感情に向き合い、自分について掘り下げていくことで「私の価値は条件付きではない」と思うようになった。
「結婚しなきゃ、子どもを生まなきゃ。本を出版したら、たくさん売れなきゃ……って、常に、まだ持っていないもの、まだ成し遂げていないことへとゴールポストを動かし続ける“成功地獄”ですよね。本当は、死ぬまでに達成しなきゃいけないことなんて何もないし、自分の価値を誰かに証明する必要なんてない。こう考えると楽になりました。自分が変わりたいと思って、目標に向かって努力するのはいいことだけれど、その結果と、その人の価値は別物。人の価値は、無条件であるべきだと思うんです」

デンマークにて(井上さん提供)
行動すれば、見える風景が変わる
25年12月に新著『第3の時間ーデンマークで学んだ、短く働き、人生を豊かに変える時間術』(ダイヤモンド社)を出版した。実は別の編集者から「日本の人がすぐに取り入れられるような、働き方の本を」とのリクエストを受けて書き始めたものの、それでは自分の考えを伝えられないと気がついた。かつての癖で編集者の期待に応えようとしていたが、本当に書きたいものは何かを考え抜いた結果、自身の経験を記すことにした。
本の中では、井上さんが研究者や周囲の人々にインタビューを重ね、仕事でも休息でもない「第3の時間」ー友人や家族と過ごしたり、趣味に没頭したりする自由時間ーという考え方を知って暮らしに取り入れていく過程を描いている。
デンマークでは、誰もが仕事以外の人生を大事にされるべき、という意識を多くの人が共有しているから、週37時間という短時間労働を実践しやすい環境がある。上司から追加の仕事を頼まれた時でも、「では、代わりにどの仕事を減らしましょうか」と質問できる。若いうちから自分の意見を言い、それを受け止めてもらった経験があるから「自分には何かを変える力がある」と信じられる。そのような自律した個人がつながりあうことで、社会に必要な変化を起こす力となるーー。すべてが関連しているため、どれかを抜き出してハウツー本のように書くことは難しかったという。
ちなみにデンマークの首相も女性だが、井上さんはこう話す。「高市さんと同じぐらい働いていると思いますが、それを強調するようなことは言わないですよね。デンマークの政治家は、むしろ、一般の有権者と同じ感覚を持っていると主張しようとするので、『猛烈に働いている』の代わりに『庭のリンゴで家族や友人に料理を作っています』と写真を投稿したりします」

井上さんのデンマーク生活は10年を超えた。いまでもがんばりすぎてしまうことはある。そんな時は付箋に「Don’t beat yourself up(そんなに自分に厳しくしないで)」と書き、机の前に張り出す。いつも夫がかけてくれる言葉だ。
優しい大人にたくさん出会い、自身も優しくなれたという井上さん。変化の必要性を感じている人には「行動してみて」と伝える。
一歩を踏み出せば、見たことがなかった風景に出会えるから。
やることを減らせば、時間に余裕をもちやすくなり、「自分は本当は何をやりたいか」を落ち着いて考えられる。そういう人が増えて、もう少し生きやすく、優しい社会になっていくと良いなと思います。
取材・執筆:山本 奈朱香
撮影:阿部 拓朗
ジャーナリスト、コミュニケーション・アドバイザー。筑波大学卒業後、読売新聞社に入社。ハーバード大学ケネディ行政大学院修了。2015年、デンマークに移住。メディアへの執筆のほか、講演やデンマーク企業のサポートなども行っている。共著に『「稼ぐ小国」の戦略 世界で沈む日本が成功した6つの国に学べること』(光文社新書)。
note https://note.com/yokodk
X @yokoinoue2019
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