言葉で世界は変えられない、なんてない。―震災直後の福島からTwitter(X)で発信し続けた詩人・和合亮一が信じる言葉の力―
東日本大震災の直後から、生まれ育った福島への想いを詩としてTwitter(X)で発信し続けた詩人・和合亮一さん。一晩で数百人のフォロワーが増えたことも。2か月後、その発信は詩集『詩の礫(つぶて)』として刊行され、海外でも出版。余震と孤独の中でつづった詩は、絶望から希望を模索しつづけた。「明けない夜は無い」と結んだ和合さんの軌跡をたどり、災害との向きあい方や社会とのつながりについて考える。
大きな災害やたくさんの別れに直面すると、人は言葉を失う。物質や安全の確保が優先される中、整理できない想いがおりのようにたまり、人を苦しめる。こんな時に心のうちを表現していいのだろうか、発信することに意味はあるのだろうか。自分の心に宿った想いを発信し続けた和合さんに、「言葉によって何が変わったか」「言葉の可能性とは」を聞く。
第一歩は、自分のために書き、発信すること
ひとり残ったアパートで、福島の“今”を書き残さねばと発信
大学のゼミで詩と出合い、現在も国語教師を続けながら詩作を続ける和合さん。30歳で出版した第一詩集は中原中也賞を受賞し、詩人として着実に歩みを重ねてきた。
「高校時代は男子校、笑いを取ることばかり考えていたので、当時の友達に『おまえが詩人なんて』と驚かれます。20歳から詩を書きはじめ、30歳で第一詩集というのは、周りと比べて非常に遅い出発でしたが、その後は早いペースで何冊も詩集を出しました」
2011年3月11日、高校入試の合否判定会議中の和合さんを大きな揺れがおそった。普段なら6時間目の授業中だが、入試期間のため生徒は不在。福島駅前で買い物中だった妻とは奇跡的に電話が通じ、当時小学校6年生の息子の安否も確認できた。しかし、移動が不自由な父親を含む母と妹の3人が住む実家には、何度電話してもつながらなかった。
「阪神淡路大震災を思い出して、家や家具の下敷きになっているんじゃないだろうかと気が気ではなく……。大渋滞の中、実家にたどりつき、庭の車に避難している3人を見つけて涙が出ました」
その後、妻子を山形に避難させ、教職員アパートにひとり残った和合さんは激しい孤独におそわれる。遠くに移動しづらい父たちとともに福島に残る決断をしたが、「これからまた大きな爆発が起きるかも」と気が気ではなかった。度重なる余震や原発事故の推移に、心身は徐々に摩耗していく。
当時、県外からは和合さんの安否を心配するメールがたくさん寄せられていた。「(無事なら)空メールでもいいから返して」という悲痛な声も。
「全員に安否を返事するエネルギーはなく、Twitter(X)に投稿して無事を伝えました。実はこれがわたしのTwitter(X)の初めて投稿になりました。その時点ではフォロワーは4人。震災1週間前に谷川賢作さん(谷川俊太郎氏の長男)に誘われてTwitter(X)を開設、パソコンが壊れてノートPCに買い替えるという偶然が重ならなければ、余震の中、階段の下に避難しながらの発信はできなかったはず。停電した地域もありましたが、断水しつつも、かろうじて電気は通じていました」
やがて、2回目の投稿からは指が追いつかないほど福島への想いがあふれ、詩人としての発信がはじまった。
本日で被災六日目になります。物の見方や考え方が変わりました。
— 和合亮一 (@wago2828) March 16, 2011
行き着くところは涙しかありません。私は作品を修羅のように書きたいと思います。
— 和合亮一 (@wago2828) March 16, 2011
放射能が降っています。静かな夜です。
— 和合亮一 (@wago2828) May 25, 2011
「震災で多くを失い、福島で暮らした記憶がなくなるのではと不安になり、今、書き残さねばと必死でした。ラジオのように、今揺れて、爆発があり、避難している人たちがいることをリアルタイムで伝えたかったんです」
孤独と絶望から、“福島をあきらめない”へ
フォロワー数は翌朝には550人に増え、3日目の朝には800人ほどになった。その後も2-3日でフォロワー数が数千人増えるほど、反響を呼ぶ。毎晩10時ころからツイートし、読者からのコメントに答えるかたちでツイートを数時間続けた。
「余震が続き、眠れるものでもない。地震酔いで頭痛やめまいがしてやつれていきました。そんな状況下、みなさんからのコメントを読むとわたしも社会とつながっていると感じられました。なにしろ放射線量が高いので『不用意な外出を避けるべき』とされていました。もし外出するならマスクをして、帰宅後は服を全部脱いで袋に入れて、髪と身体はすぐシャワーで流さなきゃと言われました。実際は水がなくて、10日間くらい風呂に入れなかったんですが」
周りも避難し、教職員アパートにほぼ最後の一人となった和合さん。今では、当時福島に残った代表の一人のように受けとめられているが、実際は病で足の不自由な父と、母と妹のためだったそう。
「父が、『避難所にいっても迷惑かけてしまうから行きたくない』『もし強制的に避難させられるなら、隠れてでも福島に住み続ける』というもので。もし大爆発が起きたら、私が実家の3人を連れて遠くまで逃げようと考えていました」
福島から避難していった人たちも、それぞれ事情がある。どこにいようと同じ福島に生きていると信じ、和合さんは彼らを思い、発信を続けた。やがて、詩の内容にも変化が。
「自分ひとりが自宅に残ってから、生まれ育った福島への想いや福島人としての誇りに気づきました。最後のひとりになっても、ここで生きぬいてやるって、しだいに強く本気で考えるようになったんです。もともと詩人として福島をテーマに書いていこうとある時から決めていたのですが、こんなに福島への思いを強めていくことになるとは思いませんでした。
“福島をあきらめない”“福島を誇りに思う。福島の力を信じる”と書く。これは震災前の自分にはなかったことです」
最初は絶望や悲しみをテーマにしたツイートが多かったが、徐々に “明けない夜は無い”と書くことが増えた。2011年5月末、余震もおさまり、和合さんは一連の発信に区切りをつける。
「こんなに絶望的なのに、どうして“明けない夜は無い”って書いてるのだろうと自分でも非常に不可解でした。そして、たくさんのコメントをいただき、また翌日ツイートして、最後の方で“明けない夜は無い”と書く……、をくり返しました」
これらの発信は詩集『詩の礫』として刊行され、本のみならず、合唱曲や演劇や美術などの作品になって様々な層へと広まることになる。
「そんな展開は思いもよりませんでした。当時は自分を支えるために詩を発信しました。発信は詩人としてだけど、根本的には教師として、父親として。
自分のために、“コンドハ負ケネエゾ。”と書きました。まずは自分に言い聞かせないと、言葉は生まれてこないのです」
余震と孤独の中で、自分と対峙した和合さん。Twitter(X)をとおして各地の読者からさまざまなメッセージが寄せられた。
「西日本在住のある方は、震災をニュースで見てとても他人事とは思えないと感じたそうです。でも地理的に遠くて、間接的な体験のように思え、気持ちを言葉にできなかった。そういう状況で私の詩を2時間読み続け、自分の気持ちが整理され『本当は自分も怖かった。悲しかった、悔しかったんだとようやく分かった』と言ってくれました」
また、福島に縁がある人々が、放射線量が高くてメディアが入れない地域にいる家族や知人を案じつつ読んでいたそう。家族を失った人や避難所生活が続く人など、夜10時からの和合さんのツイートに励まされた人たちもたくさんいた。
「私たちは、地球という大地の上で暮らしている」
2011年6月末、和合さんの2か月にわたるツイートが『詩の礫』として刊行された。同日、福島で眠る魂を悼むために書かれた『詩の黙礼』、被災者へのインタビューをとおして書かれた『詩の邂逅』も発売。三冊、同時刊行。同じ日に新しい三冊の詩集が同時に書店に並ぶことになったのは、おそらく史上初。
短期間で多くの作品を生みだし、書籍化した和合さん。通常では考えられないほどの創作ペースだ。
「何が起きたかを書き残したかった。その当時の自分を残すために、限界なんか考えずに書いて書いて書きまくりました。わたしは自分の書いたものを読み返す人間なんですが、この3冊は自分にとって特別なので、今も読み返していないんです。朗読で部分的に読むと、当時のことをすごく思い出します。自分にとっての資料にもなるし、ある意味おそろしい作品です」
2011年8月15日には、大友良英氏らと立ち上げた「PROJECT FUKUSHIMA!」で、坂本龍一氏のピアノ、大友氏のギターとともに朗読を行った。
「坂本龍一さんは『詩の礫』を読んでくださっていたんです。わたしはYMOファンなので、共演なんてと最初は迷いました。でも、直接お会いするとご本人から受けとるものはたくさんありました。『詩の礫』を通して出会った方々との経験が胸に深く刻まれて、自分が活動をする時も『あの方だったらどうするだろう』と考える自分がいます」
『詩の礫』を書きながら、和合さんが伝えたかったことは?もう一度問いを投げかけてみる。
「改めて、私たちは地球の上で、自然の脅威の中で暮らしているのだと気づかされました。社会の中にいると文明に守られていたり、人間関係に悩んだりして生きていますよね。でも、震災で大地の震えを経験し、たくさんの別れや生と死の両方をみて、改めて宇宙とつながっていると皮膚感覚で感じたんです」
詩人として、言葉で災害に向かいあった和合さん。信じられないほどのパワーで編んだ『詩の礫』を振りかえって考えることは。
「当時は、こうして詩を書き続けることで、地震や原子力災害を止められないだろうかって考えたりしていました。あれは不思議な感覚です。私たちは大きな船に乗っていて、非常に危険なところに向かっているけど、自分が書くことで、少しでもその進む方角を良い方へずらせないだろうか。そう思っていただけであって、成しとげられるわけではもちろんないのですが、それくらいの思いをこめていました。余震と放射能にさいなまれて、心が追いつめられていたんですね。
そうして、三冊分の分量を2ヶ月足らずで書きながら、しだいに気づいてきたのは、これは鎮魂や祈りのために、そしていつか明るさを取り戻していくために書いているんだ……。そのために、まずはこうして言葉や文字で何かを焼き尽くさなければ、次の展開が見えてこないのだ、と。これこそが文学のあり方だと、あれから12年が経った今でも思っています。祈るにしても、悲しみや悔しさにしても、書き尽くして、燃やし尽くさなければ、次に進めないのだ、と」
最近もたびたび福島で地震が起きている。
「歳月がたって、普段は感覚を眠らせていますが、非常事態が起きたら、いつでもみんなぱっと目を開けて当時に戻るんじゃないかな」
書くことで自分を支え、変えられる
和合さんにとって“言葉”は、人や社会とつながる手段でもある。
「言葉で活動している人間として、何度も言葉の力の大きさにはね返されました。その経験がまたものを書くことにつながっているのかもしれません。朗読してエネルギーを使い果たして歩けなくなったりしたことも、かつてありました(笑)。
朗読イベントでの和合さん
言葉によっていろんな方と巡りあえました。自分にとっても、相手にとっても真ん中に言葉がある、ということをいつも大切にしたいです」
絶望のさなかTwitter(X)で世界とつながり、変化した和合さんに、言葉の可能性についてたずねた。
「わたしは、書くことで自分を支えました。だからまず、みなさんにも自分のための発信をおすすめします。それが励みになり、自分や周りを変えることにつながるかもしれません。
言葉ってエコロジカルです。環境に悪影響も与えないし、お金もかかりません。しかし考え方や見方をちょっと変えて形にするだけで、世の中を少しでも変えていく言葉を見つけることができると信じています」
しかし、届ける相手が分からない状態から発信をはじめるには抵抗があるという人も多いだろう。
「『言葉を受けとめる』意識も、もっと育ててほしいですね。相手がいるからこその発信です。『受けとめる人』がいれば、発信する側が育ちます。
リアクションを返す、感想を述べるなど、大人がかたちをしめせば子どもたちも追随してくれるでしょう。受けとめてくれる人がたくさんいれば、自分の意見を恥ずかしがらず述べられるようになります。
私たちは、気がつけば忙しさにかまけて話を聞く姿勢をとざしてしまいがちですから。我々の社会のあり方、教育のあり方とは、受けとめる人をどう育てるかに鍵があるでしょう」
震災後、話を聞いてくれる人がいるからこそ、被災した人たちが体験を語りだし、考えを整理できたという。簡単ではないが、「悔しさや悲しさを鎮め、自分に向き合えるのは、受けとめてくれる相手がいるから」と、和合さんは最後に結んだ。
取材・執筆:岡本 聡子
撮影:菅井 愛香
1968年、福島市生まれ。詩人。国語教師。第4回中原中也賞、第47回晩翠賞、みんゆう県民大賞、NHK東北放送文化賞などを受賞。2011年、東日本大震災直後の福島からTwitter(X)で連作詩『詩の礫』を発表し続け、同年5月、世界三大コンサートホールであるオランダのコンセルヘボウに招致、朗読を行う。詩集やエッセイ集、絵本など多数刊行。震災後の著作は30冊を超え、これらはフランス、ドイツ、ブラジルなど世界各国で翻訳。2017年、詩集「詩の礫」仏語版で仏文学賞を受賞、フランスからの詩集賞は文壇史上初。令和元年、『QQQ』で萩原朔太郎賞を受賞。昨年は「あいち国際芸術祭」において日本代表のアーティストの1人に選定された。
X(元Twitter) @wago2828
公式ブログ http://wago2828.com/
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