キャリアの空白は人生にとってのリスク、なんてない。 ―作家・安達茉莉子の人生が示す「本当の自分」との出会い方―
その人の言葉や絵は、人々を温かな光のように包む。作家・文筆家として活動する安達茉莉子さんの創作物には、そんな不思議な力がある。
安達さんは政府機関への勤務や限界集落への移住、海外留学などさまざまな場所・組織に身を置き、忙しない生活を送ってきた。その中で、「人間が人間であるための心の拠り所」として、言葉と絵で物語を表現する創作活動を続けている。
『毛布 – あなたをくるんでくれるもの』(玄光社)、『私の生活改善運動 THIS IS MY LIFE』(三輪舎)、『臆病者の自転車生活』(亜紀書房)といった著作が多くの共感を呼び、現在では専業作家として活動する彼女の経歴は、どのように紡がれてきたのか。この記事では、安達さんが歩んできた道のりを振り返る。
「新卒至上主義」や「定年まで勤め上げる」といった既成概念が徐々に薄らぎ、働き方への価値観が多様化している現代。しかし、そんな中でもキャリアに空白をつくることや大きく方針転換することを躊躇う人は多いのではないだろうか。
「自分の経歴が回り道だという発想はまったくなかった」と語る安達さんは、自らの望む道を模索する中で特異なキャリアを築き、「自分にとっての幸せは何か」「幸せに生活していくためにどうすべきか」を考え続けてきた。
時には心身ともに疲弊し、目標を見失うこともあったという彼女は、どのようにして作家としての道を切り拓いたのか。春の朝日が降り注ぐ4月のある日、直接彼女を訪ねた。
迷って、立ち止まったから気づいた本心。
すべてが「書くこと」に繋がっていく安達茉莉子の学び・出会い・挑戦
「私は空っぽだった」。だからこそ気づいた本当の夢
大分県ののどかな山間の町から東京の大学に進学した安達さんは、戸惑いの最中にいた。それまで勉学だけに打ち込んできた安達さんにとって、大学は別世界のようだったという。
「幼いころから、知らず知らずのうちに『世の中は競争社会だ』と思い込んでしまっていたんです。社会には上と下があって、上に立つために努力しなければならない、と。でも、大学に入って自分より学力が高くて広い視野を持つ人たちと触れ合ったことで、『私って何がしたくてここにきたんだっけ?』と、目標を見失ってしまって」
価値観が揺らぎ、人生に違和感を感じ始めた安達さんは自分の中に「加害性」や「暴力性」が潜んでいたことに気づかされる。
「それまでの人生では『満点を目指さない人はダメだ』と思い込み、そういう人に厳しく当たってしまっていました。でも、大学で友人から『なぜそんなに他人に厳しいの?』と言われて、ハッとしたんです。自分が苦しんできた『ああしなきゃ』『こうしなきゃ』という規範を、自分自身が他人に押しつけてしまっていた」
自信を失い、「日本で生きていける気がしない」とまで感じるようになってしまった安達さん。とにかく日本を出たい、環境を変えたいという思いで、オーストラリアへの留学を決めた。しかし、そこでも疎外感を味わったという。
「オーストラリア留学は素晴らしい経験でした。現地の人々はみんな幸せに生きていて、開放感にあふれた環境でしたから。ただ、周囲の学生は夢や目標を持って学びに来ている人ばかり。日本から逃れたくて来た私は、自分が空っぽの存在のように感じていました」
そんな気持ちを振り切ろうと、安達さんは隣国ニュージーランドへ一人旅に出かけた。そこで、人生を決定づける「気づき」があった。
「格安の長距離バスに揺られながら、ニュージーランドを一周しました。その旅路で、『空っぽだ』と思っていた自分の中に生まれてきたものがあったんです。それが、『書きたい』という気持ちでした。
車窓から見た海、街並み、そこに暮らす人々の生活や表情が、素直に美しいと感じた。それを書き残して誰かに伝えたい。それだけでなく、人生すべてで経験する美しさを、書いて伝えたいと感じたんです。その時に、私は作家になると決めました」
「あの経験があったから、私は『言葉』を獲得した」。行政機関での勤務や限界集落での暮らしで得た物とは
「作家になる」という夢を手に入れた安達さん。しかし、大学卒業後の彼女がいたのは、防衛省のオフィスだった。
「留学から戻ったあと、周囲が就活を進める中でも私は作家になると心に決めていました。でも、すぐに小説や詩が書けたわけではなくて。『私にはまだ書くための経験が足りていないんだ』と感じました。そんな時に防衛省の試験があることを知って。迷いはありましたが、防衛省なら一般企業ではできない『経験』ができる。それはいつか私が書くものに活きるだろう。そう考えて、入省することにしたんです。
もちろん、苦労することはわかっていました。実際、組織の中で悩むことも多かったですし、毎日長時間働いて、つねに緊張状態で過ごしていた。それでも、私にとって必要な経験でした」
安達さんがそう言い切れるのは、この時の経験が自身の「言葉」に活きているからだという。
「ある日の仕事からの帰り道、いつも見ている景色がとても鮮やかに見えたんです。体はへとへとだけど、ふと顔に当たる風、ビルの灯りがとても綺麗に見えて。すぐに詩や俳句をつくって、更新が止まっていたTwitter(現・X)のアカウントに投稿し始めました。『まだ書けない』と思っていた文章を、パブリックな場に発信できるようになった。ある意味、この時私は『言葉』を獲得したんです」
そんな折、日本全体を悲劇が襲う。東日本大震災が発生したのだ。「死」を身近に感じさせる出来事は、安達さんを次の道に突き動かした。
「防衛省で働いている間に、さまざまな国際機関と仕事をする機会があり、興味を持っていました。それも、『作家になる』という夢のため。文芸の世界では、外交官など国際的な仕事を経て素晴らしい作家になった人もいます。私もそんな経験がしたい。そこで、防衛省を辞めてイギリスに留学し、国連職員を目指すことにしたんです」
この決断は、安達さんに思わぬ出会いももたらした。留学のための準備期間中に、ひょんなことから関西に移住することになる。
丹波篠山市の様子(安達さん撮影)
「たまたま訪れた兵庫県篠山市(現・丹波篠山市)の限界集落にある古民家を改造した施設で、留学までの間、住み込みで働くことになったんです。そこで、日本古来の建築や民芸品、伝統の美しさに驚愕しました。
人も、物も、文化も、受け継がれてきた伝統的な物にしかない美しさに、篠山で気づくことができた。それまでの私は、身の回りの物に値段の安さや手に入りやすさで妥協したり、あまり好きじゃないものを『まあいいか』と使い続けていたのですが、『それでいいの?』と初めて指摘してくれた人も、篠山で出会ったんです。この気づきは、のちに本にもなった『私の生活改善運動』として活きています。篠山時代がなければ、いまの私はありません」
安達さんが「コスパ」「タイパ」に囚われない理由。イギリスで得た出会いと、作家の道への確信
安達さんが留学先として選んだのは、ロンドンから電車で南に1時間半ほどでたどり着く海辺の街・ブライトン。「開発学」という、国際開発や人道的活動について研究する学問を学ぶことで、国連職員という目標に挑戦した。
ブライトンの大学院には、さまざまな国や地域から多様なバックグラウンドを持つ学生が集まっていた。中には貧しいとされる国から来て、「先進国」側とはまったく違う視点を持つ人もいた。
「現地で一番の親友が、エチオピア出身でした。彼女の国は『最貧国』とカテゴライズされていて、欧米が主導する国際開発や支援の失敗を体感として知っていた。開発を主導する先進国は、いまだに発展途上国の人を無知で貧しいという偏見の目で見ているのです。そんな視点を持つ彼女と触れ合って、『国連職員』という目標が本当に求めているものなのか、という疑問を持つようになりました。
一方で、彼女は『茉莉子が書く文章が好き。最後まで読ませる何かがある』と言ってくれたんです。そこでやっぱり、私がやるべきことはこれなんだと再認識しました」
ブライトンの人々との出会いは、安達さんの人生観を変えると同時に肯定し、背中を押すものだった。
「私がブライトンにいたのは短い期間で、あの街の良い面ばかりを見ていたかもしれません。ただ、私が関わった人はみんな、自分のなかに『筋』や『軸』があった。どんなに時間をかけても、多少の不利益を被っても、『筋』を通す人ばかりでした。
もし自分のなかに『筋』がなければ、とりあえずわかりやすい成果の指標として、どれだけ早く、どれだけ労力やお金をかけずにできたか、というような『コスパ』『タイパ』に囚われやすくなる。現代の日本には、そんな人が多いのかな、と少し感じます」
ことが起こった時が、それをやるタイミング。作家活動を支えた親友と読者
ブライトンから帰国した安達さんは、作家としての活動を本格化していく。ZINE(※)や詩集をつくり、初めての個展も開いた。安達さんの言葉と絵は、ゆっくりと染み渡るように人々に広がっていった。
一方で、創作活動だけで生計を立てていくことは難しく、いくつかの会社や団体で働いた。その間、何度も挫けそうになったという。その度に、安達さんを作家の道に立ち戻らせる出来事があった。
※ZINE:個人やグループの有志が、非営利で自由に制作する冊子。リトルプレスなどと呼ばれることもある。
「作家として日の目が見られるかわからない状況で勤め先の仕事が忙しくなり、あらゆる言葉が書けなくなったことがありました。メールの返信もできず半年ほど音信不通になって、もちろん作品も書けなくて。でも、そんな時にもメールを送り続けてくれていたのが親友のミュージシャン・大和田慧ちゃんでした。そしてある日、街を歩いていたらたまたま慧ちゃんとばったり会って。彼女が再会をすごく喜んでくれて、止まっていた時が動き出したように感じたんです。慧ちゃんは『茉莉子ちゃんは書く人。それはずっとわかってるから、何年休んでも何一つ気にしないよ。ずっと、次の作品が読めるのを待ってる』と言ってくれて。すごく救われました。
創作の世界では『⚫︎歳までに芽が出なければ辞めなさい』とよく言われますけど、そんなことはないんだなと思います。私の人生、いろんな経験をする中で、『やっぱり書かなきゃ』と思わされる出来事が何度も起こる。何歳であろうが『やりたいことがわかった時』がやるタイミングなんだな、と」
もう一つ忘れられない出来事が、とあるブックフェアに参加した時のことだ。その時の安達さんは、ほかの作家やアーティストと比べて知名度がないことに自信を失っていたという。
「クリエイター同士の集まりに行くたび、自分がダントツで無名だと勝手にショックを受けていました。専業作家ではなく、会社で働きながら活動していることもなんとなく負い目に感じていて。自分はこの先ずっと“売れる”ことはない、無名作家として“身の丈”にあった活動をしていこう……。そんな卑屈な気持ちになってしまっていた。
それで、私はブックフェアなのに名刺を持っていかなかったんです。誰も私の名刺なんて欲しがらないだろうって。でも、会場の雰囲気や、その場で私の本を買ってくれる人、すでに私の作品を読んでくれたことを報告してくれる人との出会いややりとりが純粋に楽しくて。そこで気づいたんです。無名でも、力がなくても、もうすでに私に気づいてくれている人、いままさに気づいてくれる人がいる。上ばかり見て、現実に起きている嬉しいことをスルーしてしまっていた。変に自分を卑下するんじゃなくて、目の前の喜びから始めていけばいいんだって。
その思いを持ち続けて、結果的にいまは専業作家として物語を紡いでいます。だから私は、休んだことも別の道を行ったことも、回り道だと思ったことはないんです」
念願の専業作家になったいまは、ありがたいことに捌ききれないほど依頼をいただくこともあります。そんな時は勇気を持ってお断りしたり締切延期の相談をしたりして時間をつくり、ただ海を見ながらアイスを食べたりすることも。キャリアの空白は怖いですが、その空白こそが、自分の本当の心を教えてくれるのかもしれません。
取材・執筆:生駒奨
撮影:大嶋千尋
編集:白鳥菜都
作家・文筆家。大分県日田市出身。大学卒業後、防衛省勤務、兵庫県篠山市(現・丹波篠山市)の限界集落での生活、イギリス大学院留学などさまざまな活動を経験。現在は「MARIOBOOKS」の屋号のもと、言葉とイラストを中心とした創作活動を行なう。著書に『毛布 – あなたをくるんでくれるもの』(玄光社)『私の生活改善運動 THIS IS MY LIFE』(三輪舎)『臆病者の自転車生活』(亜紀書房)『世界に放りこまれた』(ignition gallery)などがある。
X @andmariobooks
Instagram @andmariobooks
オフィシャルサイト https://mariobooks.com/
みんなが読んでいる記事
-
2023/05/18高齢だからおとなしく目立たない方がいい、なんてない。―「たぶん最高齢ツイッタラー」大崎博子さんの活躍と底知れぬパワーに迫る―大崎博子
20万人以上のフォロワーがいる90代ツイッタラーの大崎博子さんに話を伺った。70歳まで現役で仕事を続け、定年後は太極拳、マージャン、散歩など幅広い趣味を楽しむ彼女の底知れぬパワーの原動力はどこにあるのだろうか。
-
2023/09/12ルッキズムとは?【前編】SNS世代が「やめたい」と悩む外見至上主義と容姿を巡る問題
視覚は知覚全体の83%といわれていることからもわかる通り、私たちの日常生活は視覚情報に大きな影響を受けており、時にルッキズムと呼ばれる、人を外見だけで判断する状況を生み出します。この記事では、ルッキズムについて解説します。
-
2022/02/03性別を決めなきゃ、なんてない。聖秋流(せしる)
人気ジェンダーレスクリエイター。TwitterやTikTokでジェンダーレスについて発信し、現在SNS総合フォロワー95万人超え。昔から女友達が多く、中学時代に自分の性別へ違和感を持ち始めた。高校時代にはコンプレックス解消のためにメイクを研究しながら、自分や自分と同じ悩みを抱える人たちのためにSNSで発信を開始した。今では誰にでも堂々と自分らしさを表現でき、生きやすくなったと話す聖秋流さん。ジェンダーレスクリエイターになるまでのストーリーと自分らしく生きる秘訣(ひけつ)を伺った。
-
2023/01/05障がいがあるから夢は諦めなきゃ、なんてない。齊藤菜桜
“ダウン症モデル”としてテレビ番組やファッションショー、雑誌などで活躍。愛らしい笑顔と人懐っこい性格が魅力の齊藤菜桜さん(2022年11月取材時は18歳)。Instagramのフォロワー数5万人超えと、多くの人の共感を呼ぶ一方で「ダウン症のモデルは見たくない」といった心無い声も。障がいがあっても好きなことを全力で楽しみながら夢をかなえようとするその姿は、夢を持つ全ての人の背中を温かく押している。
-
2024/10/2465歳で新しい仕事を始めるのは遅すぎる、なんてない。 ―司法試験にその年の最年長で合格した吉村哲夫さんのセカンドキャリアにかける思い―吉村哲夫
75歳の弁護士吉村哲夫さんは、60歳まで公務員だった。九州大学を卒業して福岡市の職員となり、順調に出世して福岡市東区長にまで上りつめるが、その頃、定年後の人生も気になり始めていた。やがて吉村さんは「定年退職したら、今までとは違う分野で、一生働き続けよう」と考え、弁護士になることを決意する。そして65歳で司法試験に合格。当時、最高齢合格者として話題になった。その経歴は順風満帆にも見えるが、実際はどうだったのか、話を伺った。
「しなきゃ、なんてない。」をコンセプトに、読んだらちょっと元気になる多様な人の自分らしく生きるヒントやとらわれがちな既成概念にひもづく社会課題ワードなどを発信しています。
その他のカテゴリ
-
LIFULLが社会課題解決のためにどのような仕組みを創り、取り組んでいるのか。LIFULL社員が語る「しなきゃ、なんてない。」
-
個人から世の中まで私たちを縛る既成概念について専門家監修の解説記事、調査結果、コラムやエッセイを掲載。