ママになったら新しいことに挑戦できない、なんてない。
東京2020オリンピックに31歳で初出場し、100mハードルで日本勢21年ぶりの準決勝進出を果たした、陸上日本代表の寺田明日香さん。小学生の頃から陸上を始め、五輪出場を期待されていたが、23歳で引退。出産を経て、7人制ラグビーの選手として五輪を目指した後、29歳で陸上界に復帰した。日本のアスリートとしては珍しいといわれる「キャリアチェンジ」の他、小学生の娘を持つ「ママアスリート」としても注目を集めている。寺田さんの信条は、「やらない後悔より、やる後悔」。今置かれている環境の中で、やりたいことにどうチャレンジするのか、生き方のヒントを伺った。
北海道出身の寺田さんが陸上を始めたのは、小学4年生の時。寺田さんの祖母が、走るのが速かった孫の可能性を見抜き、陸上の大会にエントリーしたのがきっかけだった。「東京で行われる全国大会に出られれば、ディズニーランドに遊びに行ける!」。小学生らしいモチベーションでめきめきと頭角を現し、翌年には全国大会で100mの2位になった。高校から本格的に始めた100mハードルではインターハイ3連覇、その後は日本選手権で3連覇を果たし世界陸上にも出場した寺田さんに対して、誰もが五輪出場を疑わなかっただろう。
23歳で陸上を引退してから31歳で東京オリンピックに出場するまで、大学進学や結婚や出産、競技転向などさまざまな節目があった8年間。何を思い競技から離れ、何を思い競技に復帰したのか。そして、子育てで忙しい中、何を原動力に前に進んできたのだろうか。
アスリート以外での、生き方の軸を考えておくと、何かあった時にも大丈夫だと思えるはず
「才能なんてくれてやる」。23歳で決断した陸上界からの引退
2008年から2010年まで日本選手権3連覇を果たしていた寺田さんは、2012年のロンドン五輪出場を期待されていた。しかし2011年から、思うような結果を残せなくなっていった。女性アスリートに特有の無月経・生理不順・疲労骨折を全て経験していたのだ。
「高校に入ってから2010年ごろまでは本当にうまく進んでいて、ロンドン五輪の可能性も見えてきていました。2009年の世界陸上にも日本人最年少の19歳で出場していて。でもその後から、自分の体が変わり始めたり、思うように動かなくなってきたことが、すごく精神的に負担になっていたんですね。
どんどん食べられなくなっていくし、それでも体をつくらないといけないプレッシャーで、コーチなどの前では無理に食べ物を押し込んでいた感じだったんです。なのに、“食べたら体が変わってしまうからダメだ”という不安もあって、その葛藤がすごく強かったんですよね。そんな自分が周りからどう見られるかというのも、10代だったので気になっていました」
引退の2文字は、いつ頃からよぎっていたのだろうか。
「調子が悪くなってから2年間、いろいろ自分で考えてもうまくいっていなかったので、次の年もダメだったらやめようと思っていました。やっぱり、ロンドンを逃したのは大きかったですね。手の届く範囲にありながら出場を取りこぼして、他の選手が出場したことで、精神的にガクッときたんです。そこから這(は)い上がれるすべみたいなものも持っていなかったですしね。
その時は“才能があるのにもったいない”と周りからすごく言われたんですが、“才能なんてくれてやる!”と思っていました。今振り返ると、“それって周りから大事にされていたんだよ”と昔の私に言いたいですけどね。でもその時は、“才能があったって、発揮できないなら意味ないじゃん。だったら欲しいと思っている人にくれてやる。私は別の道に行くから!”というくらい、やさぐれていたんですよ」
引退後は北海道から上京し、大学に進学。23歳という若い年齢からの再スタートだった。
「23歳なら、大学を卒業して就職をする皆さんとそんなに年齢が変わらないし、頑張って勉強すれば、そんなに後れを取らずに社会人としてやっていけると思ったので、スパッと切り替えていこうと思えました。
日本だと“諦めた”“逃げた”という雰囲気になりがちですけど、そうではなくて、やってきたことを他の何に生かせるかの方が大事なんですよね。実業団選手として生活の保障はされていたし、そのまま選手でいることもできた。でも、ズルズルと競技を続けるよりは新しい知識や力を身につけて、前に進んでいく道を私は望んだんです」
2014年に出産し、2016年には7人制ラグビーの選手としてのスタートを切った。
「足の速さを生かせるということでお声がけいただいたんです。競技は違えど“ オリンピックを一緒に目指そう”と再び言ってもらえることなんて人生においてなかなかないことなので、自分の中でまた競技をやる気持ちが芽生えてきたんです。ただ、ラグビーを始めて数カ月たった頃に、大会で足首を骨折してしまって、しばらく戦線離脱したんですね。
その後に復帰した時、代表チームの強化方針やフォーメーションなどに理解が追い付かなくなってしまって……。もともとラグビーをやってきた人間ではないので、難しい部分もあったのかもしれません。そこで、このままラグビーを退くのか、続けるのか。それとも、戻ってきた足の速さを生かすのか……。たどり着いたのが、陸上への再転向だったんです」
ママアスリートの原動力は、活躍する姿を子どもに見せること
23歳で陸上を離れて、29歳で陸上に復帰。6年ものブランクは、周囲の目には「大丈夫なのか?」と心配に映っただろう。夫も当時、「自信はあるの?」と聞いたそうだが、寺田さんは「自信がなかったら、やらない」と答えたという。
「会話の流れで答えただけで、そんな自信満々に言ったわけではないですよ(笑)。でも、“間違いなく私は日本で一番になれます”と言い切れるわけじゃなかったけど、昔よりは陸上競技が心から好きだと思えるようになっていたんですよ。だから競技を突き詰めていく過程に対しても夢中になれる自信はあったんです。
夢中を突き詰めていくと、人から見たら努力に見えるものも、自分にとっては全然努力ではなくて、ただ楽しんでいるだけなんですよね。そこが結果に結びついていったんだと思っています」
子育てに忙しい母親が、まだ出場したことのないオリンピックに挑戦をする。その原動力はどこから生まれていたのだろうか。
「ママアスリートってまだまだ珍しいし、子どもがいて競技をするのは大変って思われがちですよね。でもむしろ子どもの存在が原動力で、子どもにオリンピックで活躍している姿を見せたいという気持ちで頑張ってきました。実際に、去年のオリンピックを通して娘はすごく成長したんですよ。私の試合の結果だけでなく、試合に向かう過程のことについて言ってくれるようになったり、周囲のサポートしてくれている人たちのことも理解するようになったり。そこは彼女なりの心の成長だったのかなと思っています。
夫との関係は、本当に普通の夫婦だと思っていますよ。共働き家庭で、妻の職業がたまたまアスリートだという感じに捉えています。家事は普通に分担しますしね。ゴミ出しや洗濯、娘の送り迎えなど、どちらでもできることは基本的には夫がやって、娘の服選びや料理などは私がするといった具合です。“ 試合前だから一人きりにして”とも言わないし、特別なこともしないですね」
キャリアチェンジをもっと身近に。経営者として伝えたいこと
寺田さんは2021年11月に『株式会社Brighter Hurdler』『一般社団法人A-START』を設立し、経営者としてのキャリアもスタートさせた。今後は自分の取り組んできた陸上競技や食育を広める活動の他、アスリートのキャリア支援にも取り組んでいきたいという。
「アスリートは、年齢などで限界が来た時に、“競技以外に何もやってこなかった”とセカンドキャリアに悩まれる方が多いんです。そこで、選手の時から何かできることを形にしておいて、引退したらすぐにキャリアチェンジできるようにしたいという思いがあります。
特に女性アスリートに関しては、女性としてどう生きるかもあるじゃないですか。どこで結婚したいとか、どこで子どもを産みたいとか。そこで、アスリートとしての生き方の軸の他に、生き方の軸をもう1つ考えておくと、何かあった時にも大丈夫だと思えるのではないでしょうか。選手をやっている時の方が実は時間があったりするものなので、その間に自分が好きなことを見つけたり、他の職業につながることを見つけられたら、引退した後も自分を生かせる道を歩んでいけると思っているんです」
アスリートとして、ママとして、経営者として。自身の活動を通して伝えたいこととは。
「自分がやりたいと思ったこととか、気になっていることは、自分の立場や年齢を気にせずやった方がいいと思っています。やらない後悔よりは、やる後悔。もし失敗したら、“じゃあ違うアプローチから考えよう”と選択肢を絞ることにもつながりますからね。
自分自身の目標としては、やっぱり2年後のパリ五輪の100mハードルで日本人として初めて、8位までが進める決勝に進出し入賞すること。そこに向かって頑張っていきたいです。その裏で、会社の活動を通して、いろいろな方々に会って元気をもらいたいなと思っています」
競技人生でつまずいた時や新しい道を歩み始めた時の話をする寺田選手は、走りながらハードルを颯爽(さっそう)と飛び越える姿と重なって見えた。人は何かに挑戦する時、「できるか、できないか」で考えてしまう。でも、「どうするか」にフォーカスした時、新しい一歩を踏み出せるような気がした。
取材・執筆:久下真以子
画像提供:株式会社Sports SNACKS
1990年、北海道出身。小学4年生から陸上競技を始め、高校時代にはインターハイ3連覇、卒業後は日本選手権3連覇。2013年に現役を引退後、結婚・大学進学・出産を経て、2016年に7人制ラグビーに競技転向する形で現役復帰。2018年12月にラグビー選手としての引退と陸上競技への復帰を表明。2021年に自身初の五輪となる東京オリンピックに出場。日本人では同種目21年ぶりとなる準決勝進出を果たした。
オフィシャルサイト Web
Twitter @terasu114
Instagram @terada.asuka
みんなが読んでいる記事
-
2024/09/30女性だと働き方が制限される、なんてない。―彩り豊かな人生を送るため、従来の働き方を再定義。COLORFULLYが実現したい社会とは―筒井まこと
自分らしい生き方や働き方の実現にコミットする注目のプラットフォーム「COLORFULLY」が与える社会的価値とは。多様なライフスタイルに合わせた新しい働き方が模索される中、COLORFULLYが実現したい“自分らしい人生の見つけ方”について、筒井まことさんにお話を伺った。
-
2023/09/12ルッキズムとは?【前編】SNS世代が「やめたい」と悩む外見至上主義と容姿を巡る問題
視覚は知覚全体の83%といわれていることからもわかる通り、私たちの日常生活は視覚情報に大きな影響を受けており、時にルッキズムと呼ばれる、人を外見だけで判断する状況を生み出します。この記事では、ルッキズムについて解説します。
-
2023/02/27アンコンシャスバイアス(無意識の思い込み)とは?【前編】日常にある事例、具体的な対処法について解説!
私たちは何かを見たり、聞いたり、感じたりした時に実際にどうかは別として、「無意識に“こうだ”と思い込むこと」があります。これを「アンコンシャスバイアス(無意識の思い込み)」と呼びます。アンコンシャスバイアスによるネガティブな影響に対処するための第一歩は、「意識し、理解する」ことです。
-
2022/02/22コミュ障は克服しなきゃ、なんてない。吉田 尚記
人と会話をするのが苦手。場の空気が読めない。そんなコミュニケーションに自信がない人たちのことを、世間では“コミュ障”と称する。人気ラジオ番組『オールナイトニッポン』のパーソナリティを務めたり、人気芸人やアーティストと交流があったり……アナウンサーの吉田尚記さんは、“コミュ障”とは一見無縁の人物に見える。しかし、長年コミュニケーションがうまく取れないことに悩んできたという。「僕は、さまざまな“武器”を使ってコミュニケーションを取りやすくしているだけなんです」――。吉田さんいわく、コミュ障のままでも心地良い人付き合いは可能なのだそうだ。“武器”とはいったい何なのか。コミュ障のままでもいいとは、どういうことなのだろうか。吉田さんにお話を伺った。
-
2021/06/17エシカル消費はわくわくしない、なんてない。三上 結香
東京・代官山で、エシカル、サステイナブル、ヴィーガンをコンセプトにしたセレクトショップ「style table DAIKANYAMA」を運営する三上結香さん。大学時代に「世界学生環境サミットin京都」の実行委員を務め、その後アルゼンチンに1年間留学。環境問題に興味を持ったことや、社会貢献したいという思いを抱いた経験をもとに、「エシカル消費」を世の中に提案し続けている。今なお根強く残る使い捨て消費の社会において、どう地球規模課題と向き合っていくのか。エシカルを身近なものにしようと活動を続ける三上さんに、思いを伺った。
「しなきゃ、なんてない。」をコンセプトに、読んだらちょっと元気になる多様な人の自分らしく生きるヒントやとらわれがちな既成概念にひもづく社会課題ワードなどを発信しています。
その他のカテゴリ
-
LIFULLが社会課題解決のためにどのような仕組みを創り、取り組んでいるのか。LIFULL社員が語る「しなきゃ、なんてない。」
-
個人から世の中まで私たちを縛る既成概念について専門家監修の解説記事、調査結果、コラムやエッセイを掲載。