チャンスは一度きり、なんてない。-9年間の待機の末、42歳で初飛行。宇宙飛行士・向井千秋に学ぶ、キャリアに「年齢」も「性別」も関係ないということ-

1994年7月8日(日本時間7月9日)、スペースシャトル・コロンビア号に搭乗したアジア人女性初の宇宙飛行士、向井千秋さん。彼女の名前には、常に「女性初」という枕詞が付いていた。

「みんな、なにもなかった場所に『年齢』や『性別』などで線を引き、『その輪から出てはいけない』とお互いに暗示をかけているだけ」と、彼女は言う。まだ法律によって女性の働き方が大きく制限されていた時代、向井さんは女性を覆うバリアなどないかのように輪からはみ出し、自分らしく生きてきた。

彼女にとっては「女性初」であることに、なんの意味もない。しかし、日本人女性にとって「女性初」が「向井千秋」だったことには、大きな意義があったのかもしれない__。

向井千秋さん

女性の社会進出が進んでも、まだ男性のサポート役ばかりだった時代、女性の地位向上のためでもなく、男性と張り合うためでもなく、ただ好奇心だけで宇宙飛行士になった向井千秋さん。スペースシャトル・コロンビア号、ディスカバリー号と2度の搭乗を経て、現在は東京理科大学の特任副学長として「みんなで月に住む」ための研究をしているという。

パワースポットのようにエネルギーに満ちた向井さんの視点と言葉を借りて、障壁も限界も境界線もない世界をのぞいてみた。

 「常識」に刈り込まれてつまらない盆栽になるより、不格好でも好きな方向へ枝を伸ばし、自分の人生を生きるべき

緑のランドセルは「私だけ」。ひな祭りも五月人形もない家庭で育まれた、ボーダーレス・マインド

「私が生まれ育ったころの日本は、貧しくて何もなかったから、男も女も大人も子どもも老人も、自分ができる仕事をするのが当たり前だったのよ」

ジェンダーフリーの価値観に至ったきっかけを聞くと、生まれた環境そのものがボーダーレスだったのだと、向井さんは答えた。

中学校教師の父と鞄店を営む母の第一子として、向井千秋さんは生まれた。当時には珍しく、両親はお互いを「喜久男さん」「ミツさん」と下の名前で呼び合い、男女の区別なく、手が空いている方が家事をした。向井さんには弟が2人、妹が1人いるが、家にはひな人形も五月人形もなかった。その代わり、「こどもの日」には家族みんなで鯉のぼりを上げて祝ったという。

のちの向井さんをほうふつとさせる、あるエピソードがある。「緑のランドセル事件」だ。

「母が鞄屋を営んでいたので、店先にディスプレイとして色とりどりのランドセルが並んでいたんですよ。私、その中でも緑色がとても気に入って。ほら、萌えるような新緑って、美しいでしょう?父にも『いいね』って言ってもらって、意気揚々と小学校に乗り込んでいったの」

向井千秋さん

当時小学校のランドセルといえば、男の子は黒、女の子は赤が通例のなか、幼い子どもの目に、緑色のランドセルは「異物」として映った。

「『ガマガエルを背負ってる』っていじめられて、泣いて帰ったんです。そしたら父にすごく叱られて。『自分で緑を選んだんだろ、それに緑の方がいい色なんだぞ』って」

__そういわれれば、そうかも。

異物であるということは、他の誰とも違うということ。だから、この緑のランドセルは、私だけのものなんだ。そう思うと、誇らしく思えた。曲がっていた背筋がピンと伸びると、同級生もからかわなくなり、逆に世界に一つだけの若草色のランドセルをうらやましがるようになっていったという。

「なんだってそう。周りの人がなんと言っても、自分が自信を持って、『これがいいんです』って胸を張ればいいの」

その後人を助ける仕事に就きたいと、向井さんは中学生で単身上京、慶應義塾大学医学部を経て、付属病院では同大学出身者として初の「女性」心臓外科医となった。

「男女問わない」宇宙飛行士募集欄に書かれた一言が、宇宙への道を拓いた

「私ってほら、知らないことを『なになに?それ、どうなってるの?』って覗き込むのが大好きなんですよ」

1983年、新聞を読んでいた向井さんは、小さな広告を見つける。宇宙飛行士訓練生の募集広告だった。当時は『男女雇用機会均等法』が施行される以前で、『優生保護法』や『労働基準法』により、特定の職業を除き、女性の長時間労働や危険労働が禁止されていた時代だった。本来ならあるはずのない「男女問わず」という一言が、向井さんの背中を押した。

「宇宙へ行くような危険な任務なのだから、当時は男性のみに限定されていてもおかしくなかった。1960年代に女性たちがウーマン・リブ活動を起こしてくれたおかげで、私の道が拓けたんです」

2年間の選考を経た1985年、毛利衛さん、土井隆雄さんとともに、向井さんは宇宙飛行士候補生となった。そしてそこで初めて、自分が女性であることを強く意識する場面に直面する。

「選ばれたのはたった3人なのに、新聞には『紅一点』って書かれるんです。100人のうち女性がひとりという状況ならともかく、3人しかいないのに。インタビューでも、毛利さんや土井さんには、『宇宙飛行士としてどんなことに貢献できると思いますか?』って聞くのに、私にだけ、『女性として、何がしたいですか?』って。宇宙飛行士としてならやりたいことはたくさんあるけれど、『女性として』と限定されてしまうと難しいでしょう?だから私、その記者に『あの2人にも、男性として何をしたいか聞いてみてくれませんか?』って、言ったんです」

世間の注目は、向井さんの能力でも職業でもなく、性別に集まった。「女性初」だからといって、全ての女性のお手本になりたいわけじゃない。男性と張り合ってその地位を奪うわけでもない。ひとりの人間としてやりたいことを見つけ、努力してつかみ取っただけなのに。怒りでも苛立ちでもなく、ただ戸惑い、答えに窮した。
JEMモックアップ内のPS3人(JAXA)

JEMモックアップ内のPS3人(C)JAXA

 

世間の注目をよそに、向井さんの夢はすでに宇宙へと向かっていた。しかし、それから向井さんが実際に宇宙へ飛び立つまでは、9年間の年月を要することになる。

1986年1月28日(現地時間)、スペースシャトル・チャレンジャー号が爆発し、7人の宇宙飛行士全員が殉職する事故が発生、原因追及のため、NASAはスペースシャトルの運航中断を発表した。再び日本人宇宙飛行士に搭乗機会が巡ってきたのは、1992年9月打ち上げのスペースシャトル・エンデバー号。搭乗するクルーには、毛利衛さんが選ばれた。

「候補生に選ばれたときはうれしかったけど、搭乗できるのは3人のうち1人だけなんです。毛利さんが選ばれて、土井さんと私はバックアップ要員になりました。しかも、NASAとの契約はその1飛行のみだから、待っていれば自分の順番が回ってくるってわけでもないんです」

向井さんは控えの宇宙飛行士として訓練を積み、アラバマ州ハンツビルのミッションコントロールセンターで、その日を迎えた。飛行当日になっても、実際に飛び立つまでは何があるかわからない。毛利さんのバックアップメンバーとして、打ち上げ直前まで「自分が飛ぶ」という気持ちをキープしなければならなかった。

スペースシャトルの打ち上げでは、まずメインエンジンが点火し、その6秒後に横に添えられた2本のブースターエンジンが点火する。万が一のことがあった場合、メインエンジン点火時点ではまだ引き返せる。しかし、ブースターエンジンが点火すると、もう戻れない。つまり、ブースターエンジンが点火したとき、向井さんのチャンスは消えてしまうのだ。

毛利さんには無事に宇宙へ行ってほしい。しかし、自分も宇宙へ行く日のためにこれまで訓練を積んできた__。向井さんは、複雑な気持ちでカウントダウンを見守った。

ロコットの発射をモニターで見守る宇宙飛行士

地上より毛利PSを支援する土井PSと向井PS(C)JAXA/NASA

「5、4、3、2、1、リフト・オフ(発射)!」

ブースターロケットが点火し、毛利さんを乗せたスペースシャトル・エンデバー号は、無事宇宙に飛び立った。

「ほっとするのと同時に、寂しさも感じましたね。でも、『It’s not my flight.』これは私のフライトじゃなく、毛利さんのフライトなんだ、私は私に与えられた仕事をしようって」

「宇宙が私の仕事場」宇宙飛行士を「仕事」として定常化させるために、2回目のフライトへ挑む

エンデバー号を見送った2年後の1994年、向井さんはスペースシャトル・コロンビア号の座席に固定されていた。発射までのカウントダウンを聞きながら、思い浮かんだのは、一人の男性。フランス人宇宙飛行士ジャンジャック・ファビエ、向井さんの控えの宇宙飛行士だった。彼もまた向井さんと同じ時期に宇宙飛行士候補生となり、飛行チャンスを9年間待っていた。

「彼がそのとき何を思うのか、私には手に取るようにわかった。だから、ブースター・イグニッション(点火)の声を聞きながら、『ジャンジャックごめんね、これは私のフライトだから』って思っていました」

ロケット発射

スペースシャトルコロンビア号(STS-65)の打上げ(KSC)(C)JAXA/NASA 

33歳で宇宙飛行士候補生に選ばれてから9年。向井さんは42歳で初めて宇宙に飛び立った。そしてその4年後の1998年、ディスカバリー号で2度目の宇宙飛行を成し遂げる。当時、2度目の飛行は日本人初だった。

宇宙にいる向井千秋さん

フライトデッキでポーズをとる向井PS(C)JAXA/NASA 

「私は宇宙飛行士を、仕事として定常化したかったんです。そのためには絶対に2回目を飛ばなきゃって。一度搭乗しただけで帰国して、講演会で経験を語るだけなんて、宇宙飛行士の仕事じゃない。『私の仕事場は宇宙だ』って言いたかったんです。だからもちろん、3回目も行くつもりでした」

しかし、2003年2月に発生したコロンビア号事故により、NASAはスペースシャトル発射の目的を、科学研究ではなく宇宙ステーション建設に切り替えた。乗組員も向井さんのような医師や科学者ではなく、エンジニアが中心となり、向井さんはフランスの国際宇宙大学で、後進育成にあたることとなった。

向井千秋さん

「みんな、宇宙飛行士っていうと特殊な職業だっていうけれど、地球だって宇宙なんですよ。宇宙の中の、地球環境。例えて言うなら私がいる場所が、宇宙の一丁目一番地なんです」

人の命を救いたくて医者になり、地球が見たくて宇宙へ行った。決して裕福な家庭で育ったわけではない向井さんにとって、教育は「夢を叶えるツール」となった。現在は東京理科大学で特任副学長をしながら、宇宙への夢を抱いて集まった若者たちとともに、「みんなで月に住む方法」を研究している。

自分の価値観で生き、好きな方向へ枝を伸ばせばいい

1990年代、向井さんの宇宙飛行士姿をテレビで観ていた少女たちは、「女性でも宇宙へ行けるんだ」と希望に胸を膨らませた。しかし成長するにつれ、未だ男性社会で活躍できるのは、一部の優秀な女性のみだと気がつく。彼女たちの中には、キャリアへの諦めと同時に家庭という幸せを手にした人も多いだろう。そしていま、「女性活躍」の号令の下に再び社会に踏み出したとき、可能性に満ちた若者やキャリアを積み重ねてきた同年代を見て、自信を喪失してしまう人もいる。

なんの実績も積めなかった。でも、もう若くはない。彼女たちが再び自信をもって自分の人生を生きるためには、どうしたらいいのだろうか。

「もう一回最初から積み木を積めばいいんですよ。積み木は高くなればなるほど崩れやすくなるんだから、みんなどこかで崩れるの。だから他人の積み木と比べないこと。自分で積み木を積み上げたという実績が自信になり、自分の『ユニークネス』になるはずです。なのに、ほとんどの人は人の積み木と比べてしまう。自分の人生を生きていないんですよね。

私は誰がなんて言ったって、自分の好きな方向へ枝を伸ばそうと思ったの。まあ、隣の人に私の枝が邪魔だって言われたら、ちょっとだけ曲げてもいいけどね。自分の価値観に沿って枝を伸ばして、自分に恥じなく生きればいいの。

日本の教育では、みんな均一に枝を刈り込んで、つまらない盆栽みたいにしてしまうじゃない?みんなのお手本になりたいと『いい子』を演じていると、いつも肩に力が入ってしまうし、自分らしさを出そうとする前に、エネルギーがなくなってしまいます。

それぞれ置かれた場所が違えば日当たりも違うのだから、枝を伸ばしたい方向だって違うはず。全員が判を押したようにつまらない盆栽になるよりは、あっちこっち枝が伸びていた方が、おもしろいでしょう?」

向井さんの前の時代の女性たちは、「女性であること」に誇りを持ち、男性に対峙してその地位を築こうと戦った。そのバトンを受け取り「女性初」となったのは、男性と争うこともなく、フラットな視点で我が道を行く向井さんだった。

ともすれば「これからの日本女性」のお手本とされがちな彼女は、「女性」という枠にはまらず、好奇心のままに枝を伸ばし、彼女の「ユニークネス」を作ってきた。

そして、向井さんの後ろ姿を見つめる次世代の女性たちに、大切なのは性別の違いではなく、一人ひとりの違いであることを示してくれたのだ。

向井千秋さん

見えないものにみんなで線を引いて、お互いに『その枠から出ちゃだめ』って言ってるだけなんです。歳をとることだって、みんな嫌だって言うけれど、老化なんて生まれたときから始まっているでしょう?太陽だって、真っ白でギラギラのときもいいけれど、夕暮れ時、赤く染まって沈んでいく太陽も美しい。その人にしかないもの、その時期にしか出せないもの、それを『ユニークネス』って言うんじゃないでしょうか。

取材・執筆・撮影:宮﨑まきこ

向井千秋さん
Profile 向井千秋

1952年群馬県生まれ。慶應義塾大学医学部卒業後、心臓外科医に。1985年にアジア人女性初の宇宙飛行士に選出され、94年にスペースシャトル・コロンビア号、98年にはディスカバリー号に搭乗し、当時日本人初となる2度の宇宙飛行を果たした。2004年から国際宇宙大学で後進育成に当たり、JAXA宇宙医学研究室室長などを経て、2015年に東京理科大学副学長、16年からは同大学特任副学長。現在はスペースシステム創造研究センター スペース・コロニーユニット長も兼務している。

みんなが読んでいる記事

LIFULL STORIES しなきゃ、なんてない。
LIFULL STORIES/ライフルストーリーズは株式会社LIFULLが運営するメディアです。
「しなきゃ、なんてない。」をコンセプトに、読んだらちょっと元気になる多様な人の自分らしく生きるヒントやとらわれがちな既成概念にひもづく社会課題ワードなどを発信しています。

コンセプトを見る

#ダイバーシティの記事

もっと見る

#働き方の多様性の記事

もっと見る

その他のカテゴリ

LIFULL STORIES しなきゃ、なんてない。
LIFULL STORIES/ライフルストーリーズは株式会社LIFULLが運営するメディアです。
「しなきゃ、なんてない。」をコンセプトに、読んだらちょっと元気になる多様な人の自分らしく生きるヒントやとらわれがちな既成概念にひもづく社会課題ワードなどを発信しています。

コンセプトを見る