日曜日の夜は憂うつだ、なんてない。
「日曜日の夜は憂うつになる」というビジネスパーソンは多い。漫画家・うえはらけいたさんも、かつてそんな会社員生活を送っていた一人だ。うえはらさんは、大学卒業後、大手広告代理店・博報堂に就職。コピーライターとして活動した後、多摩美術大学に入学する。それから、紆余曲折を経て2020年に漫画家として独立。「小学生の頃から、自分は漫画家になると思っていた」と語るうえはらさんが、なぜコピーライターの道を選び、美術大学で学ぼうと思ったのか。うえはらさんの会社員生活を振り返りながら、仕事に対する価値観や、「好きなこと」を仕事にするためのヒントを伺った。
厚生労働省が公表した「令和3年 労働安全衛生調査(実態調査)」によると、現在の仕事において、強い不安やストレスを感じている労働者の割合は53.3%(※)。働く人のじつに半数以上が「仕事が辛い」と感じている。そんな社会で、仕事に前向きに取り組むにはどうすればいいのか? また、キャリアチェンジをしたいと思ったら、どのような心構えを持つべきなのか? うえはらさんの経験は、多くのビジネスパーソンに役立つヒントにあふれている。
※出典:厚生労働省「令和3年 労働安全衛生調査(実態調査)」
https://www.mhlw.go.jp/toukei/list/r03-46-50b.html
何歳になろうと、漫画を描きたい自分を肯定してもいいじゃないか
漫画が好きでも仕事にするものではない
現在、漫画家として活動するうえはらさんが、「漫画家になろう」と思い立ったのはいつだったのか?
「きっかけは、自分の体が弱かったことでした。喘息持ちで、小学生の頃はしょっちゅう学校を休んでいました。ひどい時は1年の3分の1ぐらいは学校に行けませんでしたね。喘息は発作があると苦しいのですが、おさまると元気なんです。学校を休んだものの、することがなく暇になってしまいます。家ではテレビばかり観ていました。番組よりもCMがおもしろくて、CMだけをビデオに録画していたこともあります」
うえはらさんが初めて漫画に出会ったのは、小学1年生の頃だった。
「母が図書館で『鉄腕アトム』を借りてきて『読んだら?』と勧めてくれました。それをきっかけに漫画に興味を持つようになり『僕も漫画家になるのかなあ』と思い始めました。小学6年生の時、自由研究で『織田信長の生涯』という10ページほどの漫画を描きました。それが、僕の人生で初めて描いた漫画です」
その後、うえはらさんは中学・高校へ進学するが、漫画への情熱が消えてしまう。漫画を描くことはもちろん、読むのもやめてしまったという。
「母は、僕が絵を描いているのを快く思っていなかったんです。小学6年生の時、母と真剣に話し合ったことがあります。『けいたはほんとに将来漫画家になりたいと思っているの?』と聞かれました。実は僕の同級生に原哲夫先生(※)の息子さんがいて、母は原先生の奥さんと仲がよかったんです。『身近に漫画家がいるから、あなたもなれると思っているかもしれないけど、実際は食べていけるような仕事ではないんじゃないの?』と言われて、僕も『漫画は仕事にするものではないな』と思い込むようになりました」
「漫画が好き」という自分を認めながらも、未練を断ち切るように、うえはらさんは自分の生活から漫画を遠ざけた。高校を卒業すると、国際基督大学(ICU)へ進学。大学3年生の終わり、就職活動を始める時期がやってくると、再び将来の進路に頭を悩ませた。
「『自分は絵を諦めた人間』という想いがずっと心の底にありました。とはいえ、自分で絵を描かないとしても、モノづくりに近い職業に就きたいとは思っていたんです」
うえはらさんは、テレビに夢中になっていた小学生時代を思い出し、テレビ番組の制作に携わろうとテレビ局の選考を受けるが、ことごとく落選。テレビ局勤務は早々に諦めたものの、幸運にも大手広告代理店・博報堂に入社することができた。
「『漫画は仕事にするものではないな』という思い込みはなくなりませんでした。広告代理店を受けたのも、“ ちゃんとした職業”に就かなければいけないと考えたからです」
※漫画家。代表作に『北斗の拳』『花の慶次』シリーズがある。
日曜の夜が嫌で、日曜の夜に出社していた
博報堂に入社すると、うえはらさんはコピーライターとしての道を歩み始める。新人として、テレビ・ラジオCMのプランニングやキャッチコピー、商品のネーミング、企業のスローガンなどを手がけた。土日も関係なくずっと働き続け、多くの会社員と同じように「日曜日の夜は憂うつになる」時期も経験した。
「あまりに日曜日の夜が嫌だったので、めちゃくちゃなんですけど、休みなのに日曜日の夜に出社したりしていました。あえて“月曜日”を早めに来させて、翌日の作業を先にやってしまえば気が紛れる、と考えたんです。頭がバグっていましたね」
うえはらさんをそこまで追いつめたものは何だったのか。
「コピーライターは華やかなイメージがありますが、実態はとても泥臭い仕事です。とくに辛かったのが、自分の提案がなかなか採用されないことです。会議の場で検討されて落とされるのならまだよくて、まず会議に出す前の先輩のチェックがなかなか通らない。5回連続ダメ出しをされて、会社のソファで号泣したこともあります。『世の中に深く長く残るものを作らないと仕事として意味がない』と思っているのに、どうしていいかわからない。入社して2年ぐらいは、まるで闇の中を歩いているような感じでした」
自分はコピーライターに向いていないと考え、うえはらさんは美大への編入を検討し始める。
「『自分は人生のどこかで決断して、絵を仕事にするはずだ』という想いが心の片隅にずっとあったことに気付きました。辞める意向を伝えると、「『自分でコンセプトを考え、有名なアーティストに絵を描いてもらって、コラボしたりすればいいのでは?』などと上司から言われたりもしたのですが、『それは違う』と僕は思いました。自分で手を動かして絵を描くことに意味がある。それは会社員の片手間ではできない。それと、高校時代に担任の先生のひとことで美大の受験を諦めてしまったことも、心の“しこり”として残っていたんだと思います」
うえはらさんは、みずからの過去を清算するように多摩美術大学へ編入。広告会社の経験を活かした『コピーも書けるデザイナー』を目指すため、グラフィックデザイン学科を選んだ。
「多摩美には、才能にあふれた人がたくさんいました。大学で学びながらイラストレーターの仕事をしている人とか。しかも、お金を稼ぐことが目的ではなくて、絵が好きだからやっている。そんな人たちを目の当たりにして、計算高く行動している自分がバカらしくなってきたんです」
小学生の頃に言われた母親の一言で「漫画は仕事にするものではない」と思い込んでいたうえはらさん。その思い込みは、いわば“呪い”のように人生を縛ってきた。しかし、美大の人たちとの出会いによって、うえはらさんは自分の本当の気持ちに気付く。
「多摩美では、好きでやっているなら、どんなに変なことをしても、周りの人は否定しません。『漫画を描きたい自分を肯定してもいいじゃないか』。そう思って、何の迷いもなく卒業制作として漫画を描きました」
働く人を勇気づける漫画を描きたい
「漫画を描きたい自分を肯定」したうえはらさんだったが、多摩美を卒業後、すぐに漫画家として活動を始めたわけではなかった。美大で培ったスキルを元に、デザイナーとしてインターネット広告代理店・サイバーエージェントに再就職したのである。
「就職したのは、すぐに漫画家で食べていけるとは思わなかったからです。多摩美の学費でそれまでの貯金を使い果たしてしまったので、1年間無収入でも暮らしていけるだけのお金を貯めました」
生活の目処も立ち、サイバーエージェントは1年半で退職。2020年、うえはらさんはついに漫画家として活動を始めた。
うえはらさんが漫画家として世間の注目を集めたのは、コピーライターを主人公にした『ゾワワの神様』だ。ビジネスパーソンを中心に話題を呼んでおり、とくにクリエイターからの反響は大きい。作品が発表されるたびに、共感する声がSNSに次々とアップされている。『ゾワワ』は、会社員の誰もが経験するようなエピソードがリアルに描かれているからだろう。「働く人」の苦悩を体感したうえはらさんだからこそたどりついた境地だ。
「『ゾワワ』を読んだ人からは、『勇気づけられた』『自分の働き方にも活かしたい』といった感想をいただいています。声優とかコスプレイヤーとか、意外な業界の人からも注目されていて、驚いたのは紙芝居屋さんから『自分たちの業界と同じだ』という声をいただいたことです。どんな仕事も根底でつながっているんですね」
2023年には、「ACC TOKYO CREATIVITY AWARDS」(ACC賞)と『ゾワワの神様』のコラボ作品も発表している。ACC賞はテレビ・ラジオなどの広告を中心に優れたクリエイティブを表彰するもので、うえはらさんの経歴が縁となって実現したコラボといえる。
「ゾワワの神様×ACC」コラボ漫画は、2023年5月25日にツイートされるや、インプレッションは38万を超え、167リツイートと大きな注目を浴びた
0.5歩ずつジリジリと人生の方向を変えていく
小学生時代に『鉄腕アトム』に出合ってから、多くの紆余曲折を経て、漫画家にたどりついたうえはらさん。これまでの経験は現在の活動にどんな影響を与えているのか?
「『自分には何の才能もない』。それを真正面から受け止められたことが人生最大の収穫だと思っています。仮に18歳ぐらいから漫画を描き始めていたとしたら、『いつか才能が開花する』『自分には何かあるはず』と考えたでしょう。でも、実際にうまくいくとはかぎらない。『いいものを作るのは才能ではなく技術である』という学びは、今の活動にも活かされています」
漫画家として世に出ようとする場合、原稿を描いて出版社に持ち込み、編集者のアドバイスを受けながら賞に応募。当選したら雑誌に掲載されプロの漫画家としてデビューする、というプロセスを経るのが王道だ。しかし、うえはらさんはその道を選ばなかった。
「自分の才能に賭けるような活動はしないようにしています。王道のやりかたでは、才能がないと途中で挫折してしまいます。自分の持っているバックボーンを最大限使い、大ヒット作は作れないけど、SNSなどで小粒の作品を出していく。僕はそんな戦術をとっています」
うえはらさんは、人生の方向を変えようとする時、軸足はつねに元の場所に置いたままにしている。「絵を描く」と決めても、まずはデザイナーとして仕事をするため基礎を学び、漫画家として活動する前に十分な生活費を貯めている。そうすれば、途中で挫折する可能性は低くなる。回り道をするからこそ、着実にゴールに近づける。その考え方は、多くのビジネスパーソンが参考にできるだろう。
「僕には『あの時、あの人の言葉がきっかけとなって、人生の舵を大きく切った』という経験がありません。0.5歩ずつジリジリと人生の方向を変えていって、気付いたらこの道を進んでいた、という感じです」
うえはらさんは「働く人を勇気づけたり励ましたりする漫画を描いていきたい」と展望を語る。会社員を経験している漫画家は多くない。ビジネスパーソンとしての悦びと悲哀を体感していることは、うえはらさんの大きな強みだ。紆余曲折あったけれどやりたいことを見つけて現在地に着地した“夢追い人”。その知見を活かした長編漫画が読める日を心待ちにしたい。
1988年、東京都生まれ。大学卒業後、株式会社博報堂に入社。コピーライターとして5年間勤務した後に多摩美術大学に編入学。卒業後はデザイナーとして広告代理店での勤務を経て、2020年4月に漫画家としてデビュー。現在、就活応援サイト・マスナビで『ゾワワの神様』を連載中。著書に『コロナが明けたらしたいこと』(アスコム)がある。
Twitter @ueharakeita
note @ueharakeita
多様な暮らし・人生を応援する
LIFULLのサービス
みんなが読んでいる記事
-
2023/09/12ルッキズムとは?【前編】SNS世代が「やめたい」と悩む外見至上主義と容姿を巡る問題
視覚は知覚全体の83%といわれていることからもわかる通り、私たちの日常生活は視覚情報に大きな影響を受けており、時にルッキズムと呼ばれる、人を外見だけで判断する状況を生み出します。この記事では、ルッキズムについて解説します。
-
2024/04/23自分には個性がない、なんてない。―どんな経験も自分の魅力に変える、バレエダンサー・飯島望未の個性の磨き方―飯島 望未
踊りの美しさ、繊細な表現力、そして“バレリーナらしさ”に縛られないパーソナリティが人気を集めるバレエダンサー・飯島望未さん。ファッションモデルやCHANELの公式アンバサダーを務め、関西テレビの番組「セブンルール」への出演をも果たした。彼女が自分自身の個性とどのように向き合ってきたのか、これまでのバレエ人生を振り返りながら語ってもらった。
-
2021/09/30苦手なことは隠さなきゃ、なんてない。郡司りか
「日本一の運動音痴」を自称する郡司りかさんは、その独特の動きとキャラクターで、『月曜から夜ふかし』などのテレビ番組やYouTubeで人気を集める。しかし小学生時代には、ダンスが苦手だったことが原因で、いじめを受けた経験を持つ。高校生になると、生徒会長になって自分が一番楽しめる体育祭を企画して実行したというが、果たしてどんな心境の変化があったのだろうか。テレビ出演をきっかけに人気者となった今、スポーツをどのように捉え、どんな価値観を伝えようとしているのだろうか。
-
2024/07/11美の基準に縛られる日本人【前編】容姿コンプレックスと向き合うための処方箋
「外見より中身が大事」という声を聞くこともありますが、それでも人の価値を外見だけで判断する考え方や言動を指す「ルッキズム」にとらわれている人は少なくありません。なぜ、頭では「関係ない」と理解していても外見を気にする人がこれほど多いのでしょうか?この記事では、容姿コンプレックスとルッキズムについて解説します。
-
2023/04/11無理してチャレンジしなきゃ、なんてない。【後編】-好きなことが原動力。EXILEメンバー 松本利夫の多彩な表現活動 -松本利夫
松本利夫さんはベーチェット病を公表し、EXILEパフォーマーとして活動しながら2015年に卒業したが、現在もEXILEのメンバーとして舞台や映画などで表現活動をしている。後編では、困難に立ち向かいながらもステージに立ち続けた思いや、卒業後の新しいチャレンジ、精力的に活動し続ける原動力について取材した。
「しなきゃ、なんてない。」をコンセプトに、読んだらちょっと元気になる多様な人の自分らしく生きるヒントやとらわれがちな既成概念にひもづく社会課題ワードなどを発信しています。
その他のカテゴリ
-
LIFULLが社会課題解決のためにどのような仕組みを創り、取り組んでいるのか。LIFULL社員が語る「しなきゃ、なんてない。」
-
個人から世の中まで私たちを縛る既成概念について専門家監修の解説記事、調査結果、コラムやエッセイを掲載。