仕事や生活の疲れは休めば取れる、なんてない。

川野 泰周

川野泰周さんは、1416年に創建された禅寺の19代目住職だ。日々、寺務をこなしながら禅の教えを伝える一方で、精神科医として心の悩みを抱える人たちの診療に当たっている。近年、川野さんが普及のための活動に取り組んでいるのが「マインドフルネス」だ。書籍を何冊も著し、講演活動も精力的に行っている。「マインドフルネス」とは何か。禅僧と精神科医の“二足のわらじ”を履きながら、なぜ「マインドフルネス」を人々に勧めているのか、話を伺った。

激化する競争社会で、ストレスを抱えながら生きる人が増加している。「過労死」「うつ病」「燃えつき症候群」など、さまざまな問題が取り沙汰され、最近ではコロナ禍によって人々の不安が高まっている。そんな現代社会で暮らす人々の心をケアする方法として注目されている「マインドフルネス」。問題解決の“処方箋”となる理由とは?

現代社会で「自分の価値」を見いだすのは難しい

東洋の宗教者である禅僧が、西洋発祥の「マインドフルネス」を説く。この異質な取り合わせの原点は、川野さんの小学生時代までさかのぼる。先代住職の父親を手伝いながら、法事で寺を訪れる人たちの様子に関心を持った。

「ある日、四十九日の法要にきた家族が『良かったね、やっと天国へ行けたね』とニコニコ顔で故人に話しかけていました。別の日、三回忌の法要に参列した家族は、心の苦しみが癒えず、悲しみに満ちた表情をしていました。大切な人を亡くしたのは同じなのに、一方は笑顔、もう一方は悲嘆にくれた顔。両者の心のありようにどんな違いがあるのだろう? 幼心にそんな疑問を抱いていました」

川野さんが高校生の時、父親が病に倒れこの世を去る。寺を存続させるには、住職を継がなければならない。しかし、川野さんの希望は、大学で医学を学ぶことだった。

「『人の心の仕組みを科学的に理解したい』。小学生以来、そんな思いを持ち続けていました。将来このお寺を継いで、自分が『禅』について教える立場になるのなら、理論的にその素晴らしさを理解した上で伝えたいとも思ったのです。お檀家さんや近隣のお寺のご住職にお願いをして、住職を継ぐのは先延ばしにしてもらいました」

医学部では理論を勉強し、卒業後は病院に勤務して実際に患者さんに接する経験を持った。しかしながら、人の心はあまりに深遠で、「すべてを解明した」という境地には至らなかったと川野さんは話す。臨床医として6年間診療に従事したのち、住職になるための禅の修行を、鎌倉の大本山建長寺にある専門道場で始めた。

「医師として医療の現場で働く中で、自分自身がプレッシャーやストレス、さらに診療に対する迷いも抱え、『このままではいけない』という思いを持ちながら禅と向き合うことになりました。人間が心の苦しみを手放して、幸せに生きてゆくためにはどうすればよいのか、それを知りたかったのです。1~2年目は坐禅(ざぜん)をしても雑念ばかりが頭に浮かび、心の整った状態にはなれませんでした。3年目になってようやく少しだけ修行の成果が出たのか、わずかな時間ではありますが、心が研ぎ澄まされていくような感覚を覚えました。自分の悩みやイライラを客観的に見ることができるようになり、その瞬間だけは心が楽になったように感じました。そして、こう思いました。『心のバランスを崩してしまわれた患者さんたちにも、こうした心の変化を体験していただきたい』と」

3年間の修行を終えて寺を継いだ川野さんは、同時に精神科医として復帰することを決意する。クリニックで患者さんの診療に当たりながら、現代人のさまざまな心の問題に向き合うことになったのだ。川野さんは、現代社会の問題はどこにあると考えているのか。

「旧石器時代、人が野生の動物に近い生活をしていた頃は、多くの時間、目の前の事柄にだけ意識を向けて生きていました。そうしなければ、危険を回避できず生き残れないからです。でも現代はどうでしょう? インターネットをはじめとするIT技術の発達によって、人は“情報過多”の社会に暮らしています。パソコンで書類を作りながらメールをチェックしたり、昼食を食べながら午後の会議の段取りを考えたりと、『マルチタスク』をこなしている。でも、人の脳は本来、複数の事柄を処理するのには向いていません。だから、自分でも気付かないうちに、脳が疲弊してしまっています。それが心の問題の原因になっていると考えられるのです」

「マルチタスク」は、仕事だけではない。休日も映画を見たり、買い物に行ったり、美術館に出かけたりと、さまざまな予定を立てて消化しようとする。そうすることが“有意義”な休日の過ごし方だと思っている。自分の行動を正当化するかのように「楽しかった」とSNSに投稿するが、自分の本心かどうかはわからない。しかも、脳が休まっていないのに、そのことに気付いていない。そこに現代人が抱える心のリスクがあると川野さんは指摘する。

「現代人は『自己肯定感』を感じにくくなっていることも、心の問題を引き起こす要因になっていると思います。商品の開発やプログラミングなど、分野を問わず現代のあらゆる仕事が細分化されていますよね。それぞれが一部の作業を担ってはいるけど、全体像が見えません。自分の仕事が社会の人たちを本当に“笑顔”にしているかどうか実感がわかない。自分の存在に価値を見いだしにくい時代と言えるのではないでしょうか」

追い打ちをかけるように、最近ではコロナ禍が人々の心をますますむしばんでいく。川野さんの勤めるクリニックでも、コロナ禍の影響で心のバランスを崩した患者が非常に多くなっているという。

失われた自分の感情を「マインドフルネス」で見つけられる

現代人が抱える心の問題を解決する方法の一つとして、川野さんが人々に勧めている「マインドフルネス」。きっかけは今から7年ほど前だ。

「『マインドフルネス』の存在は、研修医時代にすでに耳にはしていましたが、詳しく学ぶことはありませんでした。禅僧・精神科医としてあらためて『マインドフルネス』について勉強してみると、『あ、これは禅の教えと同じだ』とまず感じたのです。『マインドフルネス』は一般的に『今この瞬間の体験に注意を向け、価値判断をせずあるがままに受け入れる』ことと説明されます。禅は『物事をありのままの姿で捉え、それをそのまま受容する』という心のあり方ですから、『マインドフルネス』と禅の考え方はとても似ているわけです」

禅では、瞑想(めいそう)の一つとして坐禅(ざぜん)を行う。心を研ぎ澄まし、雑念を取り除いて、物事の本質を見る。つまり、坐禅(ざぜん)をきちんと実践すれば「マインドフルネス」を実践していることになるわけだ。

「現代人が抱える心の問題の一つとして、自分自身の感情がわからなくなっているということが挙げられると思います。『失感情症(アレキシサイミア)』と呼ばれる状態がこれに近いと考えられます。自分の心の内側を観察する能力が低下してしまい、自らの感情が得体の知れない存在となったため、それに振り回されてしまうのです。『マインドフルネス』によって自分の感情を客観的に観察できるようになれば、自然にストレスやイライラが治まっていきます。すると、自分の本当にやりたいことに気付けるようになるのです。自分が幸せだと思えることは何なのか、それを知ることができる。つまり『自己肯定感』が高まっていくのです」

川野さんによれば、「マインドフルネス」の実践によって自分の感情に気付けるようになるだけでなく、仕事にも良い影響を与えるという。そのため、最近は「マインドフルネス」を積極的に導入する日本の大手企業も増えている。

「『マインドフルネス』を実践していると、頭の切り替えを素早く行えるようになります。現代の仕事は『マルチタスク』だとお話ししましたが、実際はたくさんの『シングルタスク』を矢継ぎ早に処理している状態なのです。前のタスクから次のタスクへスムーズに移ることができれば、効率的に仕事をこなせます。“忙しい”という感覚は減っていくのに、成果物のクオリティはどんどんアップするという現象が起こるのです」

例えば、川野さんは大手インターネットサービス会社で「マインドフルネス」の研修を行った。同社は「マルチタスク」に明け暮れるスタッフが多く働く企業だった。1日2~3回の瞑想を2週間続けてもらったところ、「身心の疲れが軽くなった」と感じる人が多く、実際に疲労度を測定する検査でもその効果が示されたそうだ。

日々の生活の中で気軽に瞑想してみる

多忙な日々を送る私たちが「マインドフルネス」を実践するには、どうすればよいのだろうか。坐禅を組み瞑想するのは、初心者には少しハードルが高い。川野さんの著書をはじめ、多くの書籍で推奨されているのが「呼吸瞑想」だ。

「呼吸瞑想ではまず、静かな環境でイスや床に座り、軽く背筋を伸ばします。1~2回深呼吸したあとは、自然な呼吸に任せて、鼻や口からの空気の出入りを感じるという方法です。朝起きた直後や仕事の休憩時間、夜寝る前などに行うと、心がスッキリします。ネガティブな考えや感情を手放せるはずですよ」

呼吸瞑想は基本的な瞑想法ではあるが、「実はきちんと実践するのは難しい」と川野さんは付け加える。

「呼吸瞑想は、呼吸という微弱な感覚を観察しなければならないので、初めはなかなかうまくいかないものです。でも私たちの生活の中にはそれ以外にも、『これも瞑想になるの?』と思ってしまうような方法がいくらでも転がっています。例えば、おやつを一口一口ゆっくりと丁寧に食べる『おやつ瞑想』、キャベツを切る包丁の感覚に意識を向ける『キャベツの千切り瞑想』などを、瞑想に取り組んでいるという意識を持って実践するのです。禅の偉い和尚さまからは、お叱りを受けてしまいそうですが(笑)」

川野さんは、普段の食事や入浴、掃除などを行う際、その行いに意識を向け「瞑想」するよう努めているそうだ。また、初心者にはこうした日常の何気ない習慣の中で行う「瞑想」の他に、「感謝の瞑想」を勧めたいという。

「感謝の瞑想は、まず呼吸瞑想か深呼吸で心を整えたあと、両親や学校の先生など、昔お世話になった人を思い浮かべます。相手にしてもらったことを具体的にイメージしながら、心の中で『ありがとうございます』と感謝の言葉を述べましょう。いったん深呼吸したら、今度は今お世話になっている人を思い浮かべて感謝します。もし、お世話になった(なっている)人がいなければ、モノでも構いません。普段使っているスマホ、愛用している腕時計など、『いつも役に立ってくれてありがとう』と感謝の意を表すわけです。

最後に呼吸瞑想か深呼吸で締めくくります。いつの間にか心が温かくなっているのに気付かれると思います。でも瞑想をしていると、別の考え(雑念)が浮かんできてしまうこともあるでしょう。それでもまったく問題ありません。雑念が湧いてしまう自分を素直に受け入れることが、自己肯定感を高めることにもつながるからです。もっと言えば、呼吸瞑想や感謝の瞑想にこだわる必要もありません。毎日何かしらの瞑想を実践し、『マインドフルネス』を習慣にしてはいかがでしょう」

「現代社会に生きる人が幸福に生きられるヒントになれば」という思いから、誰もが気軽に取り組める「マインドフルネス」を紹介している川野さん。語り口は優しく穏やかさにあふれているが、言葉の中に「この社会をもっと良いものにしたい」という強い想いが込められている気がした。

現代社会で生きていく限り、ストレスやイライラを完全になくすことはできません。しかし、そんな心の問題に上手に向き合うことはできます。仏教の祖・ブッダは、苦しみに向き合う方法として坐禅(ざぜん)を見いだしました。禅や瞑想、「マインドフルネス」は、古来より人類が直面し続けている悩みの解消法と言えます。宗派や流儀によって実践法に違いがありますが、最初はそうしたことにこだわらず、できることから始めてみてください。
川野 泰周
Profile 川野 泰周

臨済宗建長寺派林香寺住職(19代目)。RESM新横浜睡眠・呼吸メディカルケアクリニック副院長(精神科医)。1980年横浜市生まれ。2011年より建長寺専門道場にて3年半にわたる禅修行に取り組み、2014年末より林香寺住職となる。現在は檀務を行う傍ら、坐禅会を定期的に開催。また、ビジネスパーソンに向けて国内大手企業で「マインドフルネス」の社員研修を担当。さらに医師・看護師・介護職・学校教員・子育て世代・シニア世代などを対象に幅広く講演活動を続けている他、国内初のマインドフルネスのための通信教育講座「マインドフルネス実践講座」(キャリアカレッジ・ジャパン)の監修を務める。『精神科医がすすめる 疲れにくい生き方』(クロスメディア・パブリッシング)、『「精神科医の禅僧」が教える 心と身体の正しい休め方』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)、『ずぼら瞑想』(幻冬舎)など、著書・共著・監修多数。NHKラジオ「ラジオ深夜便」など、メディア出演を通した「マインドフルネス」の普及活動にも取り組んでいる。

川野泰周オフィシャルサイト
https://thkawano.website/

STORIES 2021/11/17 仕事や生活の疲れは休めば取れる、なんてない。