他者を「迷惑だ」と捉えないスキルを身につけよう―『ヘルシンキ 生活の練習』を読む

「しなきゃ」と思って暮らしてた。~エンタメから学ぶ「しなきゃ、なんてない。」~

日常の中で何気なく思ってしまう「できない」「しなきゃ」を、映画・本・音楽などを通して見つめ直す。今回は、京都市生まれの社会学者が、子どもたちと移住したフィンランドでの生活を綴る『ヘルシンキ 生活の練習』(朴沙羅・筑摩書房)をご紹介。日本とは考え方が異なる教育方針や暮らし方について、社会学者の目線で考察する現地レポートは、まさに生活の練習帳のよう。

朴沙羅(2021年)『ヘルシンキ 生活の練習』筑摩書房

『ヘルシンキ 生活の練習』概要

著者は日本国籍を持つ在日コリアンで、京都市生まれの社会学者。日本人の夫と二人の子どもがいる。2020年からフィンランドの首都ヘルシンキで働くことになり、二人の子どもを連れて移住した。本書は、娘・息子と共に経験したヘルシンキでの家探し・仕事・子育て・教育現場の様子・戦争や民族意識などについて、著者の思索が綴られている。

社会学者の本というと硬派なイメージを持つかもしれないが、著者が関西弁でツッコむ様子は笑えるし、子どもたちの無邪気な言葉がエッセンスになっていて読みやすい。

日本で生活する私にとって、著者が書くフィンランドの生活態度や社会に対する考え方は目からウロコだった。日本とフィンランドでは社会の成り立ちが違うため、フィンランドの考え方を参考にできる部分もあれば、理解しづらい部分もある。ただ、社会の一つの見方として、思い込みを払拭する手段として、本書に書かれた「生活の練習」を知っておくのは良いことだと思う。

「性格や才能はスキル」という考え方

まず本書を読んで驚いたのは、日本では個人が元来持って生まれた性格と捉えるものを、フィンランドではスキルと捉えることだ。たとえば、感受性の豊かさ・好奇心の強さ・共感力など、日本では一般的に性格や性質と言われるものについて、ヘルシンキの保育園ではスキルと呼ぶそうだ。

「『根気がない』という『性質』は、単に『何かを続けるスキルに欠けている』ということになる。そして、そのスキルを身につける必要があると感じるなら、練習する機会を増やせばいいことになる」(121ページ)という考え方だ。

自分の性格や性質が嫌になるとき、スキルを身につける練習をすれば変われると思うと、気が楽になる人は多いのではないか。

他者が「迷惑だ」、なんてない

日本とフィンランドで発想が違うと分かる印象的なエピソードがある。著者がレジでカードに課金をしようとしたが、システムがうまく作動せず10分ほどかかった。しかし、周りはイライラしたそぶりを見せない。そのときの様子をフィンランドの友人に「迷惑をかけたと思って焦った」と話したら、友人は「なぜあなたが迷惑をかけたことになるのか。あなたの問題ではなく、レジのシステムが悪い」と答えた。作業に時間がかかったのは著者やレジ係という個人の問題ではなく、レジシステムの問題と捉えれば、その場にいた人はお互いを迷惑に感じる必要はないと言う。そこで著者は、感情を向ける対象を個人から広げることの大切さに気が付く。

誰かを「迷惑だ」と思うことで、もしかして私たちは、連帯して解決できるはずの事柄を見逃しているのかもしれない。それはもしかして、とても孤独なことではないだろうか。

※出典:朴沙羅(2021年)『ヘルシンキ 生活の練習』筑摩書房,270ページ

社会は、知らない個人同士の活動で成り立っている。知らない個人同士が「迷惑だ」と嫌い合うことで何が生まれているのだろう? 私は、今の日本で互いを「迷惑だ」と思うことで生み出しているのは不幸の種だと思う。混んだレジで、電車で、道路で……他者に向けた「迷惑だ」という思いは不幸の種になって、社会に、個人に、澱のように沈んでいるのではないか。

著者は、住めば都だが隣の芝生は青く見えると書いている。どの国にも大きな問題があり、幸せな国などないと。そうであれば、日本に住んでいても幸福度は高められるかもしれない。互いを思いやるために必要な共感力がスキルであり、磨けるものならば、みんなが他者へ「迷惑だ」と目線を向けない練習を続けて、みんなで幸せを掴み取れるかもしれない。

本書は他にも、在日コリアンとして経験した日本とフィンランドの民族意識や難民の捉え方の違い、フィンランドが経験した内戦と二度の対ソ戦争などについても取り上げている。ここでは紹介しきれないが、著者の経験と思索をなぞることで視野が広がり、思い込みを払拭してくれる良い練習になると思う。気になる方は手に取ってみてほしい。

文:石川 歩

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