きちんとした文章を書かないといけない、なんてない。
哲学者であり作家としても活動している千葉雅也さんは、長年「書けない」悩みと対峙(たいじ)し続けてきた。
近年はSNSやブログなど、自分の言葉をアウトプットできる機会が増えた。そういった自己発信の場以外でも、企画書や取引先へのメールなど、「書く」という行為は私たちの生活と密接している。「書けない」悩みや「書く」ことへの苦手意識を抱く人も少なくないだろう。
それらの根底には「ちゃんとした文章を書かなければならない」という呪縛がある、と話す千葉さんに「書けない」悩みを克服する手がかりを伺った。
インターネットの広がりにより、ブログ、SNS、小説投稿サイトなど言葉で自己表現できる多種多様なサービスが身近な存在になった。文章を書く機会は増えたが、文章を書くハードルが下がったかといえば、意外とそうでもない。
何かを書きたい気持ちはあるのに、いざ書こうと思うと「うまく書けない」「まとまらない」。
読み手に誤解を与えないようにしなければという配慮。「有益な文章を書かなければ」といったプレッシャー。理想とする文章と自分の文章とのクオリティーのギャップ。「もしも共感されず、リアクションがなかったらどうしよう」というおびえ。
こういった理由から、無意識に「書くこと」へのハードルを上げてしまっている人もいるだろう。
そんな悩みに対して千葉さんは、かつての自身を重ねて「こう書く“べき”という規範や、文体へのこだわりを捨てればいい」と語る。
こう書く「べき」なんて気にしなくていい。
まずは自由に書いて、あとから整えればいい
立命館大学大学院の教授として、哲学者として、作家として、論文から創作までさまざまな文章を「書いて」きた千葉さん。話題の共著『ライティングの哲学 書けない悩みのための執筆論』(星海社新書)では、「ちゃんとしなければならない、だらしないのは駄目だ」という規範に縛られ「書けない」に陥った時期があると告白している。
千葉さんが「書けない」に苦しみ始めたきっかけは、東京大学大学院の院生時代へとさかのぼる。
「20歳ごろまでは好きなように書けていました。しかし、フランス現代思想を専門的に学ぶために進んだ大学院の学術論文をきっかけに、自由に書くことができなくなってしまいました。
研究では外国語の文献を使うほか、海外の研究者と議論をしたり、外国語で文章を書いたりする作業を伴うので、常にフランス語や英語などの言語に翻訳可能な形で物事を考える必要があったんです」
「翻訳を意識した論理的で明晰な文章を書かなければならない」という厳しい規範は、「しっかりとした文章を書く」という能力を鍛えた一方で、思考を好きなように広げたり、散らかしたりする力を押さえつけるようになってしまった。
「『翻訳できない日本語を書くやつは駄目だ』という批判意識から、規範に縛られざるを得ませんでした。次第に日本語独特の、どちらの意味にも受け取れる“だらしなさ”も許せなくなってしまいました」
千葉さんが「書けない」悩みにしっかりと向き合ったのは、2017年ごろに雑誌から原稿依頼があった時のこと。なかなか原稿が進まないことから、自分の「執筆スタイル」に不安を抱いたそうだ。
「書けなくなった原因は、はじめから『人に見せられる文章にすること』を強く意識しすぎていたことでした。それまではソリッドな文章を唸りながら綴っていく執筆スタイルで、『書く』ことと『形を整える』こと、2つのタスクが同時進行して行き詰まっている状態だったんです」
この方法のままでは書き続けられないと考えた千葉さんは、1週間ほどかけて「どうしたら書けるようになるか」を分析し、調べ続けた。ヒントをくれたのは、人類学者・レヴィ=ストロースの「書き方」を紹介している、読書猿さん(※)のブログ記事だった。
書きなぐれ、そのあとレヴィ=ストロースのように推敲しよう/書き物をしていて煮詰まっている人へ(2010.12.10)
https://readingmonkey.blog.fc2.com/blog-entry-461.html
「初めから完成形を考えて書き進める自分とは異なり、この記事では『とにかくまず、最初にバーッと書く』という手順を紹介していた。この方法を自分も取り入れてみることにしたんです」
※読書猿
正体不明の読書ブロガー。ギリシア時代の古典から最新の論文まで、あらゆる知を独自の視点で紹介し人気を博す。著書に『アイデア大全』『問題解決大全』(共にフォレスト出版)などがある。
きれいな文章じゃなくていい。自由な書き方を“許す”ことで書けるようになった
思うままに書いた文章を、あとから整える。それまで同時に進めていたタスクを2つに分けることで、千葉さんは徐々に「書ける」ようになっていった。これまで書いてきた、必要な言葉だけで作られる美しく厳密な文章へのこだわりをいったん捨て、もっと偶然に任せる「散文」に挑んでみたことが功を奏したのだ。
「きれいじゃなくていいし、冗長であってもいいから、自由に書くことを許しながら書いていく。偶然性に任せて吐き出すように書いたあとで、ロジック部分は翻訳可能な言葉で組み立てるように調整をしていく。また、翻訳が困難な日本語のレトリックも場合によっては許容するようにしました」
また「書く」ためにはこういった思考のほか、自分に合った「書くためのツール」の選定も重要だという。過去にもさまざまな文章作成のためのソフト、ツール類を試してきた千葉さんは、現在、複数のツールを組み合わせて文章を書いている。
「4,000文字くらいの原稿だと、文章や話の順序なんて気にせず思いついた言葉や文章のタネを一気にUlyssesというテキストエディタに書き出します。その後はScrivenerという、文章をパーツごとに並べ替えたり削ったりさまざまな編集ができるソフトで構成を組み立てていきながら、成形します。
小説のように中~大規模な文章を書く場合は、まずWorkFlowyというアウトラインプロセッサ(箇条書きで文書を作成するソフト)でアイデア出しをしたのち、書き出したアイデアに基づいてScrivenerでパーツごとに執筆し、ある程度の量になったら最終的にはWordで仕上げています」
また、デジタルツールだけではなく、アナログな道具も活用している。例えば原稿用紙を日記のように使っており、その日あった出来事やアイデアのタネなどを書き込んでいるという。
文頭に日付を書き、その下に簡単なメモ書きを残している。
「書き方」へのこだわりを捨て、自分に合った「ツール」を活用する。この2つで千葉さんは、「書く」ことへのハードルを下げ、自分を縛っていた「規範」から飛躍できるようになっていった。
文章も文体も、あとからいくらでも書き換えればいい
「書けない」ことに対しての悩みは千差万別だ。うまく書けないなど技術面にコンプレックスを抱いている人もいれば、読み手や周囲のリアクションを必要以上に気にしてしまう人もいるだろう。
大学院教授として、学生たちの「書けない」悩みにもたくさん向き合ってきた千葉さんは、こういった「書けない」悩みに対して、「こう書く“べき”から自由になる」ようにアドバイスしていると語る。
「上手だの下手だのなんて気にしなくていいんですよ、初めは恐れずに、普段しゃべっているようにそのまま書いてみたらいいんです。文章はあとから書き換えられるんだから。
もちろん、書籍や雑誌などに掲載する原稿はそこから形を整えなきゃいけないのだけれど、ブログなどであれば生々しい、身体性が表れている文章で全然かまわない。むしろそのほうがダイナミズムを感じられる。
文体へのこだわりなんて捨てればいいんです、文体もあとから変えられますから。最初に書く文章はRAWデータ(手を加えていない状態のデータ)だと捉えて、あとでビジネス書っぽいフィルターをかけたり、論文っぽいフィルターをかけたり、目上の人に出す手紙っぽいフィルターをかけたり編集すればいい」
「普段しゃべっているようにそのまま書いてみたらいい」。「書く」ことに苦手意識を感じている人たちにとって、これほど背中を押してくれる言葉はないはずだ。さらに、書きやすくなるある簡便な方法も教えてくれた。
「書けない時は、フォントを変えるだけで文章に向き合う気持ちも大きく変わりますよ。例えば明朝体には文学的な雰囲気がありますが、それゆえに『ちゃんと書かなきゃならない』という気持ちに縛られてしまいやすい。『とりあえずザッと書こう』という時はゴシック体のほうがいいでしょうね」
「文章が上手に書ける人」や「自分が理想とする文章」と比較してしまい筆が進まない、という場合は「積極的に好きな書き手の文章をマネればいい」と言う。
「マネると自分の個性が発揮できないと思うかもしれませんが、個性とは『マネしきれない部分』に表れるものです。そこを自分自身で肯定していけば、マネをしたから自分がなくなってしまう、なんてことはない」
加えて「より多くのリアクションが得られる文章が書きたい、など読み手を意識しすぎる人もいるのでは」という問いに対しては、「それは“文章”の問題ではなく“コミュニティー”の問題。リアクションが欲しいのであれば、文章を書く前に、リアクションをくれそうな人を増やすなどコミュニティーを形成すべきだと思います」とも答えてくれた。
千葉さんは「文章のプロでも、実際はスラスラ書けているわけじゃないですよ」と言う。
「書く」ことを生業とし、さまざまな表現分野を軽やかに横断しているかのように見える千葉さんでも、多くの人と同じく「書く」ことに悩んできた。だからこそ、苦しみを乗り越えたどり着いた「ちゃんとした文章を書く“べき”という規範やこだわりは捨てればいい」というシンプルな考えは、人々の「書く」ハードル自体を下げてくれそうだ。
「完璧」を求めない。その気持ちこそが「書けない」悩みを解消する糸口なのだろう。
でも「べき」なんて、ないんです。そうして、自分を縛る規範から自分を解放することがやっぱり大事なんだとわかってきた。そこに気がつけば、あなたも書けるようになりますよ。
取材・執筆:吉村智樹
撮影:中島真美
編集協力:はてな編集部
1978年、栃木県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。専門は哲学・表象文化論。立命館大学大学院先端総合学術研究科教授。著書に『動きすぎてはいけない』(河出文庫、紀伊國屋じんぶん大賞2013大賞、第5回表象文化論学会賞)、『ツイッター哲学』(河出文庫)、『勉強の哲学』(文春文庫)、『思弁的実在論と現代について』(青土社)、『意味がない無意味』(河出書房新社)、『デッドライン』(新潮社、第41回野間文芸新人賞)、『ライティングの哲学』(共著、星海社新書)、『オーバーヒート』(新潮社、「オーバーヒート」第165回芥川賞候補、「マジックミラー」第45回川端康成文学賞)など。
Twitter:@masayachiba
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