なぜ、「痩せなきゃ」に縛られてしまうのか|人類学者・磯野真穂

時に私たちを縛ってしまう“しなきゃ”という気持ち。その背景について考えるインタビュー企画「“しなきゃ”はこうして生まれる」、今回は「痩せなきゃ」と考えてしまう心理の裏側を、人類学者の磯野真穂さんに教えてもらいました。

美容や健康のためにダイエットをすることは、否定されることではありません。しかし「痩せなきゃ」という気持ちが加速すると、過度なプレッシャーから心身のバランスを崩してしまうケースもあります。

拒食や過食に悩む人たちへの取材や「痩せ願望」にまつわる研究を通じ、人々の「痩せなきゃ」という願望に向き合っている磯野さん。今回は現代社会にまん延する「痩せ願望」についてお話を伺いました。

「自己管理」と「自分らしさ」の先に生まれた「痩せ願望」

──磯野さんはこれまで「痩せなきゃ」という思いにとらわれてしまう多くの人たちに、研究を通じて向き合われてきたと思います。現代社会がこれほど「痩せている」ことをよしとしてしまうのは、そもそもどうしてなのでしょうか?

磯野真穂さん(以下、磯野):歴史をさかのぼると、ある社会の中で美しいとされる体形が「ぽっちゃり」から「痩せ」へと変化していく条件の一つには、食料事情が関わっているとされています。

かつて飢饉(ききん)にさらされる可能性のあった社会の中では、太っていることはそのまま「十分な食料にアクセスできる」こと、つまり上流階級であることの証しでした。多くの人が食糧不足にあえぐ中、ふくよかな体形を維持していられることは、富と健康の象徴だったんです。

しかし、現代日本のように工業化が進んだ社会では、食料の確保・備蓄の技術が進歩し、十分な食べ物を確保できる人が増えました。ある意味、簡単に太ることができるようになったわけです。すると今度は、大量の食べ物に囲まれている中でもその誘惑に屈することなく「自分の体をコントロールできる」という点に価値が置かれるようになってきます。

──「自分の体をコントロールできる」というのは、つまり太らない体形を維持できているということですよね。なぜ、自分をコントロールできるのがよいことだと捉えられるようになってきたのでしょうか?

磯野:そういった価値観が浸透してきた背景には、医学が病気を抱えている人だけでなく、健康な人の体までをも射程に入れるようになってきた時代の変化があります。

現在のライフスタイルや健康状態が未来の病気の有無に影響する、という予防医学の考え方が広まると同時に「できるだけ病気にならないライフスタイルを選択することで、健康を維持するべきだ」という価値観が生まれてきた。その中で、目に見える体形やBMIのような数値が、健康状態を診断したり、自己管理ができているかどうかを判断するための分かりやすい尺度になってきたわけです。

さらに、自己管理による健康維持という概念をうまくビジネスに取り入れ、「個性」や「自分らしさ」と結びつけたのが美容・健康産業です。

──「自己管理」と「個性」や「自分らしさ」は一見遠いもののように思えますが、違うのでしょうか?

磯野:「個性的であれ」「自分らしくあれ」というのは現代社会の至るところで見られるメッセージですが、「個性的」というのは、言い換えれば「人と違う」こと。つまり個性的であるためには、なんらかの形で自分を人と差異化する必要があるんです。

人と違うものを持つ、人と違うことをする……というのも差異化の一つの方法ですが、人が自分と同じものを持ったり同じことをした瞬間に、それらの差異は無効になってしまう。

だからこそ、私たちは自分の体を周囲と比較するようになります。そして周囲との差異を当然のように身体にも求めるようになりました。

「個性」や「自分らしさ」の名のもとにダイエットや健康管理を勧める広告を、いまや多くの人が目にしているはずです。「痩せている」ことをよしとする価値観は、そういった歴史と背景の上に生まれてきたものだと思います。

「痩せたい」気持ちそのものが悪いのではない

──近年はInstagramやTikTokなどSNSが日常に浸透していますが、磯野さんは、近年の「痩せ願望」に変化を感じますか?

磯野:SNSをきっかけに人々の痩せ願望が加速した、とは言い切れません。けれど昔と比べて、体の細部に目を向けるという流れは加速しているように思います。

ダイエットにしても、ただ痩せるのではなく、「筋肉をつけつつ痩せる」とか「理想的な栄養バランスの食事をとりつつ痩せる」というようなことが重視されるようになって、求められる要素が複雑化してきた印象はありますね。

それから、「医療」と「美容」の境目がどんどん曖昧になってきているのを感じます。かつては痩せるためにハードな運動をしたり食べたい気持ちを我慢して食事制限をしたりする必要があったけれど、いまは脂肪吸引や脂肪溶解注射のような医療技術の登場でダイエットがより身近かつ高額になってきました。

医療行為をうたう痩身法は必ずしも安全なものばかりではないと思うのですが、クリニックがやっているから、と安心してしまう人は多いのかもしれないですね。

──美容整形や歯列矯正などもそうですが、高額な美容医療がまるで手軽なもののように扱われている印象があります。常に新しい美容医療や痩身法が生まれているようにも感じるのですが、これは単純に医療技術が進歩しているからなんでしょうか?

磯野:初めに話した「個性」と差異化についてと同じで、ある基準を多くの人が満たし始めると、その基準を満たしていることがいつしか「普通」になってしまいます。

脱毛や歯列矯正に関しても、20年前まではこんなに「することが普通」という空気はなかったように思います。資本主義のマーケットと美容・医療業界の相性が非常にいいこともあって、どんどん加速してしまっているのかなと。

──一方で最近は、「自分らしく痩せる」「自分の理想とする“奇麗”を目指す」といったキーワードでダイエットや美容に励む人が多いようにも感じています。

磯野:「自分をどう見せたいか」ということを多くの人が自然に考える社会になってきたんでしょうね。最近、電車に乗っていると、脱毛サロンの広告ばっかりだな……と思うんです。その一方で育毛の広告も見かけるような気がしていて、一体どっちなんだ? と首をかしげることもありますね(笑)。

どの広告も「自分らしく輝こう」というような奇麗なメッセージを打ち出しているけれど、一方でインターネット上の広告には、コンプレックスを刺激するようなキャッチコピーや画像が圧倒的に多いですよね。社会の中で、メッセージがいびつに二極化しているのを感じます。

──ルッキズムへの批判もあり、人の容姿や体形についてわざわざ言及しないという空気は浸透してきているように思います。ただ、同時に、自分の容姿や体型に関するコンプレックスをオープンにしづらい空気が醸成されてしまっているようにも感じます。

磯野:そうですね。人の容姿や体形についてあれこれ言わないというのはもちろんいいことだと思うのですが、その一方で、開き直ったような過激な広告に引きつけられてしまう人が一定数いるのも現実です。

社会において「こういう体形が美しい」とか「かわいい」といわれるものを完全になくすことって、私は非現実的だと思うんです。人間が集団で生活している生き物である以上、共有の価値観のようなものをどうしても必要としてしまう。

その中の一つとして生まれてくるものが「理想体形」だと思うのですが、その存在さえ完全に否定してしまうと、その裏で過激に欲望を刺激するものが一定の支持を集めることになりかねないと思います。

──たしかに、「自分らしく」とか「ありのままでいることが奇麗」といったメッセージは大切だと思う一方で、「痩せたい」「奇麗になりたい」という自分の願望にまで無理やりふたをするのは少しいびつな気がします。

磯野:近年は「あなたのやりたいことは何?」「あなたの目指すものは何?」というように、物事の最終的な帰結を“あなた”に求めるものがとても多いですが、私は行き過ぎるとちょっと危ないように感じているんです。

というのも、すべての答えを個人に求め過ぎてしまうと、「みんなで生きている」ことに目が向きづらくなり「あなたさえ変わればいい」という自己責任的なメッセージに行き着いてしまう可能性がある。

「社会」の中で生きる一人として「あなた」がいるはずなのに、その構造が見えなくなってしまうんですね。だから私は最近「あなたはどうしたいの?」ということよりも、どういう人たちとどういう価値観を共有したいか、という点に着目したほうがいいのではないかと思っています。

 ──では、自分が価値観を共有しているコミュニティーの中に「理想体形」のようなものがあった場合、それを目指すことは否定しなくてもいいのでしょうか?

 磯野:問題は「理想体形」そのものの存在ではなく、その体形への欲望に見境がつかなくなってしまうことだと思うんです。その過激さ、過剰さに乗ってしまわないように注意することが、いちばん大事なのではないでしょうか。

「シンプルな答え」と「恐怖感」を植えつけてくるダイエットからは距離を置く

──痩せたいという気持ちを過剰にあおるようなものに自分が「乗らない」ようにするには、どのようなことに気をつければいいのでしょうか。

磯野:過激なものの特徴として「シンプルな答えがある」ことが挙げられると思います。つまり、「AをしたらBがもらえますよ」「こうしたら痩せられて幸せな人生になりますよ」というような分かりやすいストーリーがある。さらにその上に「これをしないと大変なことになりますよ」というような恐怖メッセージがついてくるようであれば、それはもう過剰なものだと判断して、距離を置いたほうがいいと思いますね。

磯野真穂さんの著書『ダイエット幻想 やせること、愛されること』『なぜふつうに食べられないのか 拒食と過食の文化人類学』

あとは、先ほどの話にあった通り、自分の欲望を悪いものだと否定し過ぎてしまうと、かえって過激なものに引かれてしまう可能性があると思うんです。自分の身体感覚と暮らしとのバランスを見ながら、その中間くらいのところをとるようにする、というのが現実的なんじゃないでしょうか。

ダイエットに関して言うなら「痩せたい」と考えるのはいいとしても、一日中ダイエットのことを考えている状態はちょっと問題ですよね。

体は暮らしの背景であって、私たちの生活を支えているもの。それなのに、体のことばかり気にしてしまうと、仕事をしたり、家族や友人との時間を楽しんだりといった、ありふれた暮らしを楽しむことができなくなってしまいます。だから、その状態まで行かないように、自分で少しずつ確かめながら調整してみるのがいいのではないでしょうか。

──熱中してしまうと、「ちょっとやり過ぎかも」と自分で気づきにくいこともあるように思うのですが、何か目安はありますか?

磯野:実体験になるのですが、私、去年1年間、試しに毎日体重を量ってグラフにして見てたんですよ。そうしたらだんだん痩せなきゃいけないような気がしてきて、途中から、次の日の体重が気になって仕方なくなったんです。「痩せ願望」に関する本を書いている自分でもこうなるのか……と驚きましたね。精神衛生上あまりよくないなと思って、結局途中でやめたんですが。

やっぱり数字って、人間の欲望をある方向にかき立てる独特な力を持っているんです。だから、数字ばかり見ていると、目標とする数字の先で自分が何を達成したいのかを見失ってしまいやすくなります。手段と目的がひっくり返り、数字のために生きているような生活に陥ってしまうこともある。

体重を減らしていくことが人生の目標になってしまったら危ういので、「自分は痩せてどうなりたいのか」「痩せることで本当にそんなにいいことが起こるのか」と自問自答し、気づいたら体重に振り回さていることのないような暮らしを送ってほしいと思います。

 

「自分らしさ」を実現する手段の一つとして選択されがちな「ダイエット」。「痩せたい」という気持ちを抱くこと自体は決して悪いものではありません。ただし、その願望の先で自分はどうなりたいのかを立ち止まって考える必要がありそうです。

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取材・執筆:生湯葉シホ
撮影:関口佳代
編集協力:はてな編集部

Profile 磯野 真穂

人類学者。著書に『なぜふつうに食べられないのか 拒食と過食の文化人類学』(春秋社)、『ダイエット幻想 やせること、愛されること』(ちくまプリマ―新書)などがある。チョコレートと甘酒と面白いことが好き。
Twitter @mahoisono
Web mahoisono.com

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