【寄稿】苦しい時には「決断しない」勇気を持つということ|岸田奈美

決断“しない”勇気を、大切に持ち続けている。

会社をやめて、作家になって1年目の秋。わたしは張り切り、日本列島をバッタのように飛び回っていた。

家族の病気でしばらく遠出できなかったのが、やっとできるようになって、三冊目の本も出た。そりゃもう“アクセル全開でやったる!”って感じで、西へ東へ、サイン会を開きに開いた。自腹で。

盛況な時は1日200人もの読者さんと会って、楽しかった。文句なしで、とっても楽しかった。

けど、ある夜から。

体がクッタクタなのに、寝れなくなった。寝れないってのは、あれは、ほんとにだめです。どんなに落ち込んでも、寝たら、だいたいどうでもよくなるので。

「あ~、なんでわたしはこんなにダメなんやろか」

ありとあらゆるダメな記憶が、短編ダメ劇場として、頭でずーっと再生される。奮発して買った漬物を、忘れて冷蔵庫で腐らせたこととか。鉄板料理屋のお会計で財布落として、牡丹と薔薇(※1)みたいに焼かれたこととか。いつもなら「もうあかんわ」って笑えるのに、笑えない。

泣けてくる。

ついに、昼の打ち合わせの時間に、いきなりダバダバと泣き出してしまった。これではあかん!と自分を奮い立たせて、編集者さんに宣言した。

「サイン会はもう、きっぱりやめようと思います」
「待ってくれる読者さんのために、オンラインでイベントやります!」
「実家のほうへ引っ越そうかな」

ア、アイデアが……アイデアがあふれ出てくる……!
前向きに決断していくほど、希望が見える気がした。

しんどい時の決断は「やめたほうがいい」

ペラペラ話すわたしに、編集者さんが言った。

「岸田さん。決断したら、いけないんだよ」

ピタッ。

フル回転していたわたしの頭が、止まる。

「しんどすぎる時に下す決断は、ぜんぶ間違ってると思ったほうがいい」

衝撃だった。

しんどい、つらい時こそ、決断しなければならない。

とにかく状況を前向きに打開しなければならない。そう思っていたから。

サイン会や仕事は、日付未定の延期にしてもらった。やるのでもなく、やめるのでもなく。決断は、先延ばしになった。

それはそれで「がっかりされないかな」と不安だったけど、とにかく何も考えないようにした。気が気じゃないから、好きなことをしようかなと思ったら、

「好きなこともやめといた方がいい」
「なんで?」
「好きなことをすると、のめり込んじゃって疲れるから」
「じゃあどうすれば……?」
「ボーッとできることがいいよ」

とも言われた。これも自分では考えつきもしなかった。
好きなことと、ボーッとすることは、全然ちがう。

それで、二ヶ月ほどボーッとしたら、じわじわ“大丈夫”になってきた。

よしやるぞ!と思って“大丈夫”にするんじゃなくて、本当に、ある時、フッと“大丈夫かも”って思えた。この境目はなかなか、うまく言葉では表わせない。自分で握った爆弾おむすびのお米が、いつの間にか、ひと粒、ひと粒、味わえてることに気づいた。

わたしに必要だったのは、目に見えない疲れをじわじわ回復するための時間だったのだ。

車の中で交わす母との会話

決断は、しんどい。

今までやってきたことを止めるのも、新しく始めるのも。仕事を変えたり、住所を変えるのも。前向きでも後ろ向きでも、大きな変化は、しんどい。

しんどいことは、しんどい時にやったらだめ、ということだ。とにかく現状を緩やかに維持するようにして、元気になってきたら、しんどいことにもちょっと耐えられる。

ただ、やってみてわかったのは、「決断しない」というのは相当な勇気がいること。

先の見えない真っ暗闇で、雨がドドドと降る中、頼りないテントを張って、じっと凌ぐようなものだ。

フッ、と。

決断しない勇気を持ち続けてくれた人のことを、わたしは思い出す。

高校に入学してすぐ、わたしは学校へ行けなくなった。朝は起きられない。電車に乗れない。とにかく、家を出るのが、嫌で嫌で仕方ない。

今思えば、入学の二年前に父を亡くしたこと、環境が変わったこと、友達とうまく馴染めなかったことなど、思い当たるしんどさはあった。でも当時のわたしでは、それをうまく言葉にできなかった。

言葉にできない悩みは、心に覆いかぶさるモヤモヤした霧だ。心配する母に、うまく伝えられないこともつらかった。つらさは、日々を追うごとに、行き場のない怒りに変わる。

口を開けば、母とはケンカばかりだった。

「学校やめる。もう家出してやる」

そんなとんでもないことも言ってしまった気がする。

最初は困り果てていた母だったけど、いつからか、わたしを学校ではなく、外出へ誘うようになった。

「イオンまで買い物行くから、ついてきてや」

母が運転する車の助手席に、わたしが乗った。買い物、弟のお迎え、役所の手続き。何かと理由をつけて、母はわたしを車に乗せた。

不思議なことに、車の中ではケンカが勃発しない。たぶん、その理由は、無言でも気まずくないこと。カーラジオがずっと流れていたし、何より、横並びで座ってるというのがよかった。じーっと向き合ってると、黙ってられないし、恥ずかしい。

最初は、黙っていた。話すことといえば、窓の外を見ながら、

「あのスーツ屋、五年前から閉店セールばっかやっとるな」
「大沢って“おおぞ”って読むんや、わからんわ」
「ハローマック(※2)の居抜きってすぐわかる」

など、しょうもない実況を、ぽつぽつと。見えてるものを、お互い、そのまんま口にしていた。

何が引き金になったかはわからないけど、わたしは少しずつ、不安な胸の内を母へ話すようになった。車の中でだけは、それができた。

やがて母は学校まで送ってくれるようになり、片道45分の二人旅がしたいために、わたしは学校へ行った。しんどいこともあったけど、なんとか、耐えられた。

暗闇にいる時は、いったん立ち止まる

十数年間、あの時間の意図はよくわからなかった。つい先日、出演中の番組で尾木ママに会った時、唐突に謎が解き明かされた。

「ふたりで同じ景色を見て、言葉にするのは、それだけですごくいいの。向き合うんじゃなくて、同じものを見ようとすると、相手が味方だって心は自然に思うんですよ。もちろん時間は、かかりますよ。お母さんはとてつもなく心配だったろうけれど、車っていう安全地帯に賭けて、待っていたのね」

CM中にも関わらず、涙がじわりと滲んできた。あの時も母は、決断“しない”勇気を持っていたのだ。

それがどれほどのものか、今のわたしはやっと、やっと、わかるようになった。

暗闇の中で、もがいている時。そこが暗闇だとは、なかなか自分ではわからない。

暗雲立ち込め、調子が悪くなり始めると、「こんなはずじゃない!ヤーッ!」と槍持って走り出してしまう。でも、もがいても、もがいても、どこまでいっても、先の見えない暗闇からは出られない。ただ疲れていく。ついにその場で倒れてしまう。

打開したく、はやる気持ちをグッとこらえて。その場から動かずに、テントを張る。テントの中でボーッとして、疲れが取れるまで待ち、フッとテントの外に出ると、光が見えることもある。そこへ向かって、ゆっくりと歩いていく体力もある。

決断を下そうとする時はいつも、偉大なる「決断しない勇気」のことも、思い出すようにしている。

※1 2004年にフジテレビ系列で放送されたドラマのタイトル
※2 株式会社チヨダが全国展開していた玩具量販店

岸田奈美さん
Profile 岸田 奈美

1991年生まれ、兵庫県神戸市出身。関西学院大学人間福祉学部社会起業学科在学中に株式会社ミライロの創業メンバーとして加入、10年に渡り広報部長を務めたのち、作家として独立。Forbes 「30 UNDER 30 Asia 2021」選出やテレビ出演など活躍の場を広げている。著書に『家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった』『傘のさし方がわからない』(小学館)、『飽きっぽいから、愛っぽい』(講談社)がある。
Twitter @namikishida
note https://note.kishidanami.com/

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