収益の上がらない食堂に価値はない、なんてない。
不動産会社と入居者の関わりは住居の契約やトラブルにまつわるやりとりが主である。だが、神奈川県・淵野辺にある東郊住宅社は契約後の関係づくりを重視している。その試みのひとつが“入居者専用食堂”トーコーキッチンだ。「ごはんを一緒に食べることは、人が交流するためのいいツール」と語る池田峰さんが考える、暮らしの質を上げる工夫とは?
JR横浜線・淵野辺駅の近くにある“入居者専用食堂”トーコーキッチンがメディアや地元住民の間で話題を集めている。運営元である東郊住宅社の物件の入居者であれば誰でも利用できるシステムで、朝食はなんと100円、昼食・夕食はそれぞれ500円で食べられる。同社の2代目社長を務める池田さんは「朝食に関しては完全に赤字」と笑うが、この食堂を始めたことで入居者同士のつながりなどの付加価値が得られるようになり、結果として会社の利益も上がったという。目先の利益にとらわれない柔軟な発想が生まれた背景には、客観的な視点と、関わった人に心地良い居場所を提供したいというひたむきな思いがあった。
臆測だけで物を考えていてはうまくいかないと気がついた
「自分なりに不動産の業務と向き合ううちにこうなっただけで、コミュニティをつくろうと思って始めたわけではないんです。でも昔からの知り合いには『峰らしいね』と言われます」と池田さんは笑う。
幼い頃から楽しいことと食べることが大好きだった。小学生の頃は放課後に友達と遊ぶだけでは飽き足らず、朝5時に起きて校庭でひとり遊びをしてから帰宅し、再び登校。給食の早食いは6年間クラスでトップ、と聞くとさぞパワフルな少年だったであろうことがうかがえる。
一方で、自意識過剰で臆病な部分もあったという。
「周りに思われている以上に自分のことを特別だとカン違いしていたというか(笑)。父が地元で家業をしてたおかげで『池田さんところの峰くん』と自分のことを知られているのが当たり前だったのも自意識過剰を加速させていた気がします」
物事の流れを読んだり人とのバランスを取るのもうまかったが、「これをやるとこう思われるだろう」と頭の中で考えすぎて自分を抑えてしまうこともしばしば。それはそれで居心地がいいと感じていたものの21歳のとき、友達に何気なく言われた「素を見せてくれないよね」というひとことを機に、このままでは良くないな……という不安が芽生えた。
「人間関係が微妙にギクシャクするのは“自分とはこういう者だ”という意識が強すぎるせいじゃないか?と気づいたんです。ごまかしの利かない場所で自分を見つめ直していかなければと思い、言葉の通じないフランスへ単身で旅に出ました」
一念発起して訪れたフランスで実感したのは、自分が何者でもないという事実だった。
「現地の人に『あ、外国人だ』と注目されることを想像してたんですけど、パリの街にはさまざまな国籍の人がいるから僕のことなんか誰も見てなくて(笑)。おまけに言葉が不自由だと日本のように取り繕う余裕がないから、必然的にストレートな表現が多くなる。最初は怒られるんじゃないかと不安でしたよ。でも恐る恐る言ってみると全然普通に返してくれるんです。その積み重ねでようやく『主観や臆測だけで決めつけずに、素直に相手と話せばいいんだ』と思えるようになったんです」
大学生時代の池田さん。バックパッカーとして世界各地を放浪していた。
契約を交わしたあとのフラットな交流が入居者の暮らしの質を高める
大学進学を機に家を出た池田さんが淵野辺に戻ってきたのは39歳のとき。直前まではニュージーランドで広告代理店を営んでいたが、家業を継ぐタイミングや奥さんの出産といったさまざまな事情が重なったため、日本に拠点を移すことにしたという。
「不動産の仕事に携わって知ったのは、想像していたよりも人との関わりが大事ということ。当初はニュージーランドの会社と並行して取り組むつもりだったんですが、入居者の方や信頼して建物を預けてくださる大家さんたちと接するうちに『これは片手間でやっちゃいけない仕事だ』と思い、不動産1本で本腰を入れることに決めました」
仕事と向き合う中で直面したのは、少子高齢化や不景気で学生数が減少しているという現実と、同社の売りであった「礼金0、敷金0、退室時修繕義務なし」を採用する同業他社が増えてきたこと。ユーザーの最終的な決め手となるのは値段だが、家賃を下げるにも限度があるし、大家側の負担が大きくなるので極力避けたい。現状を打破するためには? よりユーザーに喜んで入居してもらうためにはどうすればいいのか?と、解決策を模索する日々が続いた。
思い悩む池田さんにヒントを与えたのは、とある入居者とのやりとりだった。
「鍵をなくしたと連絡をもらったので届けに行ったのですが、深夜でお互い取り繕う余裕がなかったからか、“不動産屋と入居者”という壁を取っ払った普段着のコミュニケーションが取れたんですよね。それを機に街でも気軽に声をかけてもらえるような心地よい関係になることができて、これだ!と思ったんです」
それまでは契約の時点である程度親しくなれていると思っていた池田さんだったが、この出来事を機に「コミュニケーションを取り合って、ご近所さんのような肩肘の張らない関係性を築いていくことが自分たちの仕事の本質であり、入居者の生活の質を高めることにもつながる」と気づいたという。そのきっかけを無理なく楽に集められる手段という意味でも、食堂をつくるというアイデアは理想にピッタリだったのだ。
「ごはんを一緒に食べることは、かしこまらずにコミュニケーションが取れるいいツール」という発想は海外での経験がきっかけだったという。
「宿のそばにいきつけのお店を作って毎日同じものを注文していると『アジア人の男』というおぼろげな輪郭がだんだん明確になっていくんです。そのうち『あいつは峰っていうんだ』『チャーハン好きらしいから今日は大盛にしてやろう』と僕を僕として認識してくれるようになっていく。その時のような居場所を作るプロセスの楽しさを入居者のみなさんにも体感してもらって、淵野辺での暮らしをもっと楽しいものに感じてもらえたら嬉しいなと思ったんです」
(上段)朝食は100円。多いときは1日100食近く出るという。(下段)ランチ・ディナーはそれぞれ500円から。栄養のバランスが良くうま味調味料を使わないため体にやさしいと喜ばれている。
食堂運営は赤字ギリギリでもそれ以上の価値が戻ってくる
トーコーキッチンは昨年12月でオープン3周年。当初のターゲットだった学生のみならず、家族連れやひとり暮らしの高齢者の利用も多く、さまざまな層が気軽に交流を楽しめる場として地域に定着。「1日に2~3回は店を訪れて入居者の声を聞く」という池田さんやスタッフの交流も功を奏し、店内はアットホームな雰囲気に満ち溢れている。
「入居者の方には食を目当てに来ていただいていますが、当社側からするとみなさんと自然に接点を持てる絶好の場なんです。彼らは望んでないかもしれないけど、僕があいさつをすることで安心感を持てるかもしれないし、利害関係のない存在だからこそ学校や職場では出せない素の自分を解放できるかもしれない。僕以外のスタッフも含め、肩書にとらわれないただの人として一対一でつきあうことで、たくさんの人にとってのいい環境がつくれたら」
入居者の口コミやSNS投稿などで輪はさらに広がり、淵野辺の活性化にも一役買っている印象だが、池田さん自身は地元を盛り上げている自覚はないという。
「ひとりひとりとのコミュニケーションの点の集まりが俯瞰(ふかん)で見ると線に見えて、さらに俯瞰すれば面に見えてくる。それがコミュニティとか淵野辺の活性化に見えるのかもしれませんが、たまたまです。僕が見ているのはあくまで点である個人個人。関わってくれるすべての人に楽しんでもらえたら、という思いでやってるだけなんです」
心がけているのは自分が楽しむことと、目の前の人と向き合い、言葉を交わして交流すること。だから自ずと多くの点が集まるのだろう。
「地元愛は昔も今もそんなにないんです(笑)。でも街で挨拶できる人が増えるたびに、淵野辺が僕の居場所なんだということを体感できるような気がして、愛着は増しました」と語る池田さん。自身がそうであるように、ひとりひとりの入居者にとっても淵野辺という街がかけがえのない居場所になってほしいという願いがある。
有限会社東郊住宅社代表取締役社長。米国州立大学を卒業後、帰国してグラフィックデザイナーとして就職。その後、広告代理店勤務、ニュージーランド移住などを経て、2012年に家業である不動産会社、東郊住宅社に入社。入居者向け食堂「トーコーキッチン」を企画し、2015年12月より運営。朝食100円、昼食・夕食各500円で絶賛提供中。2016年度グッドデザイン・ベスト100およびグッドデザイン特別賞[地域づくり]受賞。幼い頃のぬり絵は間取り図。
東郊住宅社 https://www.fuchinobe-chintai.jp/
トーコーキッチン https://www.fuchinobe-chintai.jp/toko_kitchen.html
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